おまいら俺と嫁の17年を聞いて下さい
1:1◆CJ46cEotJ2 :2010/07/29(木) 20:29:40.91 ID:APhaQPiN0 板違いだったらスマソ。
精一杯の24年間を生きた嫁と、漏れの、出会いから別れまでの
17年間という長いようで短い、回想です。
つれづれ思い出しながらなので、亀展開ご容赦。。。 ( ´`)
刻を遡ること、約30年。 漏れは北陸某県の某所に生まれ落ちた。
家が商売をやっていて、町の方で暮らしていた。
それなりにぬくぬく甘く、それなりに厳しく育てられた。
祖父、祖母、叔母、母、俺という家族構成で、父はいなかった。
小学校に上がり、1年生の終わり。 23年ほど前になるのかな。
1人の転校生がやってきた。
女の子だった。
>>1
気が滅入るからやめろ
いいよ続けろよ
聞きたいぜ
まぁいい取り敢えず続けます。 批判すまそ&thx。
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転校してきたのは、記録によると3学期なので、1月頃。
大阪から親の転勤でやってきた子だった。
ちょっとやんちゃそうで、お転婆な感じがする、そんな第一印象。
その子は小学校を挟んでほとんど対角線上にある、川沿いのマンションに
住んでた。
たまたま、凄くウマの合う男友達がそのマンションに住んでいて、
小学生にしてはかなりの距離をよく自転車で行ったり来たりし、
なんだかんだですぐ仲良くなった。
その頃、3人で写した写真が残ってる。
男友達のお母さんが作ってくれたお菓子(シュー?)を囲んで
喜んでる姿だ。 この写真のシーンは何故か今でもよく覚えている。
男友達の方も、実は転勤で1年の始めの頃にやってきた奴で、
地元っこの輪にどんどん引き寄せてた俺とそいつ(以後、O君)、
そしてその子(以後、Y子)は、なんだかんだで長いようで短い
小学6年を過ごした。
小学6年、時期はいつだったかわすれたが、O君はまた親の転勤で
元々いた関東に帰っていった。
それでもそこは親友、今となっては鎮撫な文通という手段でその後も
ずっと交友を続けていくことになる。
一方、Y子と自分は同じ市立の中学校に進学した。
一度だけ同じクラスになった。特に登下校も一緒にしていた訳では
無かったけれど、「朋友」って感じの距離で、一目置いた友達として
認識してた、ような気がする。 もう昔の話。
自分は陸上部に入ったが、すぐに足を壊してリタイア。
学校中の変人が集まるという「科学部」にスカウトされて、日々怪しい
火薬を作ったり、机に穴を開けて顧問にハイキック喰らったりしてた。
一方で、Y子は美術部に入っていた。
この頃から時が流れるのは早くなっていって。
あっという間に高校受験の時節になった。
あまり成績の良くなかった自分は、取り敢えずの滑り止めの私学の
合格を片手に、少し背伸びして1ランクちょっと上の市立高校にむけて
勉強した。
後から知った事だが、Y子もその市立高校を受験していた。
結果、見事に市立高校を滑った自分は、滑り止めの私学へ行った。
都会の方は私立の方が上らしいが、こっちの地方は私学は滑り止めなんだ。
Y子は見事に市立を合格し、初めて別々の学校へ通う事になった。
高校時代の3年間、年賀状のやり取りはしていたけど、逢うことはなかった。
で、アッという間の高校3年。
何故か進学クラスに放り込まれて、でも半分遊びほうけてたから
「このままだと大学ヤバイ」って担任に言われた3年夏前の三者面談。
やりたい学問、行きたい大学があったから、夏以降、死ぬ気で勉強した。
夜2,3時まで学校がくれる問題集にがっつき、朝は7時起きで通学、
夜は10時頃まで予備校に通う日が続いた。
Y子がその頃どうしていたかは、当時全然わからなかった。
というか、その頃は勉強に必死で(親からもお前には無理だと言われて
一泡吹かせてやろうとキバってた)、頭の片隅にしまいこんでた感じ。
もちろん、年頃の男子っぽく、片思いやら失恋っぽいものも経験したけど
人並みほどのものではなかった。。。
98年1月、センター試験 → 3月前期試験。
3月終わりに合格のテレックス(faxの電報みたいなの)を受け取った時は
狂喜した。 ちなみに受けたのは東京にある某大学。
ここで、先般のO君も大学に受かってた。某学園都市の大学だった。
で、すっかり忘れかけていたY子も、某学園都市の大学に受かっていた。
と、O君から伝え聞いた。
懐かしいな、久々だし、こっち遊びに来いよ、って事で、2人を招いた。
この時点で、O君とY子が同じ関東近郊の大学で、これからは
ちょくちょく逢えるのかなーとか、そういう感じで2人を迎えた。
O君はまったく変わっていなかった(笑)(中、高の間も、数度遊びにいったのだが)
驚いたのは、Y子だった。
中学生の頃の面影しか記憶にない自分には、なんだか年相応に綺麗になった
というか、大人びた感じがした。
最初は何だか照れ臭くて上手く話せなくて、O君とからんでたけど、だんだん
慣れてきて、話してみて解った。中身はあの頃の素直さと変わってなかった。
大学時代は文武両道を一応掲げて、遊びも、勉強も、一応恋愛もした。
その間、数回はむこうの学園都市を訪ねては、O君のクソきったねぇ部屋で
3人、軽く酒を傾けながら昔話をするのが楽しかった。
この頃から、ただの幼馴染みじゃなくて、1人の女性としてY子を見てた
んだと思う。
4年になって、研究室に配属された。夜中に研究して昼寝る生活。その中で
同期4人とY子の話で冷やかされたり、応援されたり、まぁ、周りが自分に
燃料をどんどん投下していって、少しづつ火種が大きくなってったのは
否定できない。
その秋、研究の関係で国土地理院に行く用事が出来た。
国土地理院は、Y子のいる学園都市にあった。
んで国土地理院に行く数日前。
Y子に連絡を取ってみた。
当時はPHS→携帯に移行の時代で、まだ持ってない奴も結構居た。
Y子もその1人で、固定電話しかもってなかったので、大学のメアドに
連絡をつける。
返事は「逢おうよ」とすんなりO.k.
けど、すんなりo.k.されてこっちが急に焦りだした。
なんか国土地理院に行く日が近付く度に、緊張が高まってた。
で、出た結論は「行った日に告白しよう」だった。
22歳にして一世一代の大決心だったと思う(大袈裟か?)。
当日、愛車のZZ-R400を駆って、どんぶらこと学園都市に。
その間も、ああどういう展開で言おうか、いや先に地理院での
作業を済ませるべきか、いやどう考えても先に作業済ませた方が
最悪の事態になっても… とか考えてた。
待ち合わせ場所は、某学園都市大学の正門。
土地勘がないので、解りやすくするため、お互いでそこに決定した。
出発からどのくらいしたろう。秋にしては割と暖かい日だった。
果たして、Y子は正門前のすこし脇のところにちょこんといた。
Y「S、ひさしぶり!!」
Sは俺の名前。もうこの時点で脳味噌はパンク寸前。
一方でそんなことをつゆしらずのY子。
別板へ
53:1◆CJ46cEotJ2 :2010/07/29(木) 22:13:49 0
Y「変わってないねー」
俺「そりゃお前もやろ」
Y「で、国土地理院に先に行く?」
俺「そのつもり」
ってことで、タンデムで国土地理院へ向かうことにした。
自分はかぶっていたフルフェイスをY子に渡して、メット掛けにとめてた
半ヘルに被り変えた。
Y「なんで?これトレードマークじゃないの?」
俺「半ヘルで女の子はのせられませんっ」
Y「ふーん…?」
とまぁ、一応コケたり事故って女の子の顔にでも傷がついたら
大変なので、という配慮(だったと思う(緊張しっぱなしだったから
とりあえずはヘルメットを被らせてタンデムに。
つかまる所はここと、ここ、って教えたけど、怖かったらしがみつく
ように言った。 言うや否や、すぐしがみついてきた。 どきっとした。
地理院までは数分なんだけど、ほんっとに長い数分に感じた。
タンデムで女の子は何度ものせてるけど、なんか全然違う。
怖がってる様子でもないけど、Y子は黙って後ろに乗っていた。
ほどなく国土地理院に滑り込み、Y子と航空写真の閲覧室へ。
その後、適当に地理院の内部を散策し、露天展示されてた飛行機に
見とれたり、芝生の上をとことこ歩いてるY子を眺めたり。
割と時間を食われて、3時頃、近くに喫茶もなく、ファミレスに入って
少し談話、すぐ5時になった。
5時になっても、最大の任務が果たされてなかった。
告白すること。 焦りに焦っていた。
焦っていてどこをどう走ったか忘れたが、結局また大学正門まで
Y子を送ってきてしまった。 タンデムから降りるY子から
メットを受け取って、しばらく無言。でも脳内で色んな事が
高速回転。でも言葉がうまく出てこない上に、勇気が出てこない。
怖かったのであった。
怖かったのは、告白を受け容れて貰えないこと。
これは誰だってそうだと思うことだが。
だけど相手はずーっと長くの長馴染みで、自分の中では
友達の線を越えていて、、、 いやもうほんと今でも汗が出る。
で、結局、1分ほどメットをぐるぐるオモチャにしつつ、
俺「あのな、そのな…その…」
Y「…?」
Y子は薄々感じてたのかもしれないけれど、何も言わなかった。
結局自分が最後に取った行動
・がぼっ!とメットを被る
・エンジンを掛ける
・フルフェイスの視界越しに、Y子を見つめて
・あたまをぽんぽんと二回なでるように叩いて(Y子は背が低い
エンジン全開で正門を後にしてしまった。
帰る道中は自責でいっぱいだった。
着いてすぐ、Y子の自宅電話に電話をかけた(携帯もってなかった)。
めずらしく、電話にすぐ出たY子。
・好きだということ
・今日、面と向かって言おうとしてたこと
・だけど言えなかったこと
・付き合って欲しいということ
情けなかったが、Y子はちゃんと聴いてくれた。
が、返事はすぐにくれなかった。
Y「しばらく考えさせてほしい…」
自分は了解した。
その後、O君に連絡した。
O君は事情は事前に知っていた。告白することを。
彼はY子と俺の仲をどうにかとりもってやりたいと躍起になっていたし、
まずは報告しなくちゃと思ったから。
情けなくて泣いた。が、O君は
O「お前にしちゃよくやったよ。朗報を待とう。アイツにも思うところがあるんだろ」
と言ってくれた。
自分はその晩、あまり呑めない酒を呑んで、布団に潜り込んだ。
後日、Y子から待望の連絡があった。
Y「Sとはお付き合いする事ができない」
電話越しに、ほんとに首が取れるくらいうなだれた。
聞きにくいことだが、やっぱりどうしてそう判断したのか聴きたかった。
ので、ヤボだが聴いた。
Y「彼氏がいるとか、好きな人がいるとかじゃない」
S「となると、俺が付き合うに値しないってこと?」
Y「それも、違う」
S「じゃ、なんで?」
Y「きっと、Sに悲しい時間を残していく事になるから」
どういう事か、その時の頭ではサッパリだった。
1って、これから再婚するの?
電話越しに、彼女の口から、「VSD」という言葉がでてきた。
それから「肺高血圧症」。
今まで全く知らなかった事実を彼女から聞かされた。
「VSD」ってのは心室中隔欠損症という心臓病。
ウィキなんとかで調べるとよく解ると思う。
・手術でしか根治できないこと
・今の状態では手術ができないこと(悪化しているということ)
・余命は解らないけれど、そう長くはないこと
頭がパンパンになった。
VSDについては、知識だけはあった。
何故なら自分の育ての叔母が同じ病気で他界していたから。
肺高血圧症も同じだった。ずっと酸素吸入をしていないと
生きていられない身体になって、最後には苦しんで苦しんで。
そして亡くなった。
Y「これから、どれだけ生きられるか解らないの」
Y「Sと一緒に生きられたら、どれだけ素晴らしいかって思うよ」
Y「だけど、それだと私のわがままになる」
Y「Sには夢があるんでしょ?だからいまの大学へ入ったんでしょ?」
Y「私がいなければ、その足枷にならない」
Y「きっと、支えてくれる、他のだれかがいるはず」
電話先のY子の姿と叔母を重ねて、自分は何も言えずにY子の言葉を聞いていた。
S「いまからお前のところに行く」
Y「えっ?」
煮え切った自分が取った行動は、今すぐにでもY子の顔を見にいくこと。
外は少し雨がパラついていたけど、この程度なら気にならなかった。
(今考えれば結構降っていた様な気がする)
Y子は何度も止めたけれど、自分はすぐに単車でY子の下宿に向かった。
(土地勘がないから、タンクバッグに地図を入れて、何とか向かった)
心室中隔欠損症は、軽い奴なら出産も大丈夫だし手術の必要もない
スポーツ選手に・・はちと無理だろうけど、普通に生活するのに何の支障もない
重度だったのか?
学園都市に入る頃には結構な雨になっていた。ライダースーツを着てたけど
秋の寒風に濡れた身体はかなりきつかった。
でも向かう先にY子がいると思えば、、、と耐えた。
なんとかY子の下宿に辿り着いたときには、日が変わろうとしてた。
階段を上って、彼女の部屋の前。ホーンを押す手が震えてた。
Y「S…?ホントに来たの?」
S「ホントに来た」
Y「ホントにバカ」
S「バカだな。でもちゃんと話がしたかったから」
Y子は凍える俺を中に入れ、温めてくれていた風呂を勧めてくれた。
(これには助かった)
とりあえず着るモノがない(トランクスは絞ってなんとかできるが)ので、
毛布を借りてくるまった。
小さいテーブルを挟んで、2人ともまずは言葉がなかった。
結局はこっちから切り出した。
S「お前のVSDの状態ってさ…そんなに悪いんか?」
Y「ごめんね、隠すつもりでは、なかったんだけど…良くはないみたい」
S「そっか。俺の叔母ちゃんと同じなんかな…」
Y「叔母さん…早かったものね」
Y子は俺の叔母さんを知っていた。同じ病気である事を知って、
自分もああなるのかと思うと、怖くてたまらないと言っていた。
Y「VSDと肺高血圧だけじゃない。血管が左右逆な病気あるでしょ?」
S「聞いたことは、ある」
Y「だから、心肺同時移植で助かる道も、ないの」
所謂、「血管転移症」というやつである。
だからといって… というと非常に諦めの悪い男のようだが、
既に自分は心底からY子が好きになっていた。
拒絶された事もショックだったが、そんなに大きな病気を抱えながら、
健気に笑って今まで接してきてくれたのか、ということのほうがショック
が大きかった。
自分はY子を愛していた。
Y子も自分を好きでいてくれた。
だけど、Y子はそれを押し殺して、拒絶した。
みてるぞ
最後まで書いてくれ
その年、01年は、Y子と6歳で出会って、15年目になる年だった。
その間、何も気付かなかったのか。俺はバカなのか。多分バカだった。
病気の重さを語るような、薬の袋の束を見せてくれた。
自嘲的な勲章のように、すこし悲しく微笑みながら。
意を決して口を開いた。
S「仮に、仮にな、」
Y「なに?」
S「お前が先に逝ってしまっても、俺は耐えられる。思い続けられる」
S「俺がそう心に決めていたら、お前の考えは、変わるのか?」
Y「……」
ひどい質問だと今でも思う。
Y子はしばらく俯いたまま、俺はその答えを待ってみた。
彼女がしばらく返事を待って欲しいと言ったのも、深い熟考の時間を
必要としたからだろう。でも、「一緒にいられたらどれだけ素敵か」と
いう言葉から推して、もちろん彼女の本心がどこにあるのかという
探りは、いくらなんでもついていた(思い上がりだったかもしれないが)。
Y「…いなくなっちゃうんだよ? 普通の好き同志なら、いろんな事をして、
いろんな所へ出掛けて、沢山の時間を共有して…」
Y「いなくなるのは、明日かもしれない、来年かもしれない。
もしかしたら卒業してその後一緒になれるまで生きていられる
かも知れない。でも、先に逝ってしまうのは、絶対私なんだよ?」
Y「子供だって、できないかもしれない。普通の家庭の、妻として、
母として、Sの傍にいられないんだよ?」
自然と返事が出た。
S「俺はそれでいい。お前がいい。支えていく。支えてやる」
Yが泣いていた。
Y子な泣きやむまで隣にくっついていてやった。
「普通の身体だったら、あれをしたかったなぁ、これをしたかったなぁ」
とか鼻をぐずぐずならしながら、それでもY子は笑っていた。
Y「残された時間は少ないかもしれないけど…」
S「俺はそれでいいんだよ。Y子を愛して、愛された。それで生きていける」
Y「ほんとう?」
S「間違いない」
最後にはY子は泣きやんで、涙でくしゃくしゃ顔で、赤い眼を細くして、
今まで見たことのない最高の笑顔をしていた。
時はその後から点々・急変した。
休みの日には、なるべく彼女の元へ通った。出来るだけの時間を、
2人の記憶にしようと、彼女の健康の出来る範囲で費やした。
だが彼女は病状の悪化から、翌年の春に、卒業を待たずに大学を
辞して大阪へ戻った。
東京と大阪、学生の身分では足繁く会いに行くこともままならなく
なった。
就職は関西近郊でと考えたが、自分は諸事情で研究室に残り、大学院へ
進学し、東京に残った。
それでも大学同期で遠距離恋愛をしている奴らから、深夜高速バスの
上手い使い方を教えて貰ったり(バイクは危ないから止めてとも言われた
のだが)、なんとかやりくりしてなるべく大阪へ足を運んだ。
Y子のご両親は、嫌な顔一つ見せず、自分を泊めてくださった。
だが、会いに行く度に衰弱していくY子を見るのは辛かった。
時には病室に泊まり込んだ。血行不良で肩や背中の痛みを
訴えるようになった。
出来るだけの事をしようと、介護の知識もないが、せめて苦痛を
和らげられればと、背中をさすった。
Y子はそれで楽になれたのは、今では解らないが、その時は笑顔を
見せてくれた。
自分が大学院を出る春。彼女はなんとか小康状態を保っていた。
就職の難しかった時節、関西の希望は通らなかったが、名古屋の
某飛ばす物を作る系の会社に入った。
学生結婚、という手段も講じたが、実家の祖父に大反対された。
だが社会人という肩書きが着いた今、それを阻む事がなくなった。
というか、祖父そのものが他界した。86歳だった。
Y子も、名古屋での就職を喜んでくれた。
病状も以前の進行より遅くなっており、大学院時代よりは
幾分ましにはなっていた。だが酸素吸入器は手放せず、
病院内を車いすを押して回るときなども、簡易の酸素ボンベは
手放せない状態だったが。。。
最初の夏のボーナス、寸志という事ではあったが、4月からの給料と
逢わせて、婚約指輪を買った。
04年の夏の事だったからまだよく覚えている。大変暑い夏だった。
自分はスーツに身を包み、小さな小箱を大切に抱えて彼女の過ごす
病院へと向かった。
自分の姿を見たY子は、目を見開いて驚いた様子だったが、すぐに
コロコロと笑った。
自分は手にしていた小箱を差し出した。「今の精一杯だけど、」と
情けない断りを告げてだが。。。
中に収まっていたリングを見て、Y子はぽろぽろと涙をこぼした。
付き添っていたY子の母親も泣いていた。俺も泣いた。
大反対していた祖父が他界し、3回忌の取りまとめも終え、一息ついた秋。
唯一擁護にまわってくれていた祖母が親戚を交えて会談し、結婚に
賛成してくれた。
母は最初から賛成だった。父を早くに亡くしたからだろうか?
ちなみに自分に父親の記憶はない。
結納などの儀式は行わなかった。ただ彼女の病室で、本当の近しい人達
数名を集め、婚姻届に署名し、(うちは神道だが)キリスト式の簡単な
式を挙げた。
今思えば、もう少し賑やかにやってもよかったのかなと思うが、
そこは病院だから仕方なかった、と自制。
が、結局病室での挙式とあって、同フロアの動ける患者さんやその家族の
方々が顔を出してくれたりと、ちょっと蜂の巣をつついた様相に
なってしまった。
婚姻届は2人で出しに行くことは難しいので、一人で行った。
この間、ちゃんと仕事もしていた。
ただ、Y子を名古屋へ転院させるよりも、親御さんの膝元の大阪に
置いておくのが賢明と判断し、ほぼ単身赴任状態。
本来なら独身寮をあてがわれるところだったが、妻帯者は
独身寮に入れない、という事で、単身ながら社宅へ入居した。
最初は妻の姿が見えないということで奇異の目で見られたが、
早くに結婚している同期も多く、同じ社宅内ということで、
事情は早くに知って貰うことが出来た。
仕事は苛烈だった。なんとか2年目を迎え、本格始動し、さらに苛烈になった。
日が変わる頃に帰宅し、また朝出て行くという生活。
だが、大阪へ行けばY子に逢えると思うと、さほど苦ではなかった。
6月、新規事業の初度設計を担当し、客先での設計審査対応、社内調整、
ベンダ調整、etcで振り回される日々が続いた。
6/14、4時頃だったと思う。仕事がべらぼうな状態の時間帯。
自分宛に外線が回ってきた。 「親御さんからですよ」
嫌な予感がした。 そして予感は現実のものであった。
独り言なので書き進めていく。
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電話越しはY子のお母さんだった。
「午前中に血圧が下がって、いまさらに下がって危ない状態」
だと教えてくれた。
自分の現在の事情を一番よく知っていて、よく可愛がってくれていた
プロマネは、「後はいいから、すぐ大阪いけ」と言ってくれた。
同僚・先輩も、「フォローはまかせろ、すぐにいけ」の一点張り。
申し訳ない気持ちと、焦る気持ちで会社を飛び出した。
車通勤だったので、すぐ東名に乗って大阪まで駆け付けた。
今思えば新幹線の方が早かったのかもしれない。動転してた。
結局、間に合わなかった。
家族が見守る中、看護婦さんが機械の整理や、エンゼルケアをして
くれているところだった。
葬儀は淡々と進んだ。
親族の田舎の爺さん婆さんのお通夜、葬儀とは違った。
よく「お通夜みたいな顔しないの」と冗談を言う地元の人がいたが、
これが本当のお通夜なんだなあと、ぽっかり穴の空いた頭で思った。
火葬炉に見送る前、最後に棺を開けて読経をし、焼香をあげるのだが、
職員さん?が「指輪をされていますが、焼くと傷みますが…」と
教えてくれたが、敢えて一緒に焼いて貰った。
火葬は60分と言われたが、45分ほどで終わった。
収骨室に案内され、親族代表で最初に焼骨(のどぼとけ)を拾うとき、
左手の部分に焼けた指輪がちゃんと残っているのに気付いた。
こっちの風習では喉仏だけ、骨壺と別の小さい入れ物にいれるんだが、
それも一緒に納めた。
あとは淡々と、親族友人が骨をあげていく。
骨上げが終わって中陰の会食となり、その席でY子のお母さんが一通の
封筒を手渡してくれました。
Y子からの最後の手紙でした。
まだ余力のある内に書いたのでしょうが、だいぶ文字が乱れています。
かいつまむと、
・私をこんなに愛してくれてありがとう。
・私の心を打った言葉に、戦時中に亡くなった方の遺書の一文があります。
・「徒に小義に拘るなかれ あなたは過去に生きるのではない」
・「勇気をもって新活面を見出すこと」
・最後までわがままな私を許してください。
・Sは飛行機が好きでずっと勉強して今の会社に入ったよね
・それが、Sの大儀だと思っています。
:
:
Y子は、俺が追いかけた夢を大儀だと言ってくれた。
それから6年。
自分は、30になった。
と同時に身体を壊し大病を患い、今の仕事を続けられなくなった。
彼女が「大儀」と言ってくれた仕事を離れ、生まれ育った故郷へ帰る。
彼女が願った「大儀」を果たせないまま、名古屋の地を離れる。
周りは「人生の岐路」だと言ってくれる。
だけれども、自分はそれが無念で無念で、無念でならないんです。
そして漸く、生まれ故郷の家に腰を据え、この地で働き、骨を埋める。
その覚悟と決心が、やっとできました。
退職に当たっては、当時のプロマネ達が声を掛け、壮行会を開いてくれました。
同期達も、また然り。
「もっと一緒に仕事がしたかったよ」
真っ先に大阪へ行けと行ってくれたプロマネの言葉に、少し救われて。
「たまには名古屋へ遊びに来いよ。呑みにこい」
同期の心遣いにも手を合わせ。
そして今、かつて最後に背中を押してくれた祖母も母も他界したこの実家で。
新活面を見出すために。
終わり?
え?感想とかないの?
話はいいがシメがわるいぞ管理にn
奥さんの為にももっともっと幸せになれよ
は?朝から後味悪いんだけど?
最近ちゃんと釣り宣言せずに落ちる奴多くて困るわ。
話としては面白いけど、釣り宣言しないのは頂けないよな。
スレとは一転コメ欄がクズ過ぎてワロ泣いた
最近の釣りはクオリティ(笑)たけーな。別に泣いてねーし。
良かった、VSDで亡くなった嫁さんなんていないんだね
ってオチじゃないの?
目から汁が。朝から泣くとかもうね
〆が微妙だけど素直にいい話だと受け取っておくことにする
米欄クズすぎワロタ
久しぶりに泣いた
くっそ、賢者タイムも相まってか泣いちまったよ・・・
ついでにミスチルのサインが聴きたくなった。
後半、投稿時間と話の順番が前後してるから混乱した。
霧が濃くて画面が見えない
※7
馬鹿なの?
本スレのほうがよっぽど酷い
朝から雨がひどいな
画面がみえねえよ
クズがいるが気にしないようにしよう。
1にはこれからも頑張って生きて欲しい
ぼっちの俺よりマシな人生じゃねーか
O君とY子、同じ大学だな・・・しかも年もそう離れてない
なんだか切ないな
泣いた
この話はネタ確定。みんな見事に釣られたな。
お前らキモ杉wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
外出ろよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
おもんない
泣いてしまった
おい
昼飯前に泣かせるとかやめろw
頼むから釣りだと言ってくれよ・・・
釣りなんだろ?そうなんだろ?
感動をありがとう。
マジで泣きましたw ;w;
お嫁さんの分まで がんばって生きてください。
同い年のはずだけど、うちらの大学入学(1998-99)くらいが
ちょうどPHSから携帯への移行時期。
4年(2001-02)にもなって携帯持ってないとかあり得ない。
すぐに釣りと分かってしまって残念。
もってない奴もいたぞ?
※29 すまんな、持ってなかったわ。
泣いた
あとなんで俺こんなぬくぬく生きてんだろうって思った
※31-32
なんという非リア充
※29
悪かったな
俺はなんて無駄な一日を過ごしてしまったんだ
嫁さんが死ぬ直前に1を見れなかったと思うと胸が痛いな
俺の娘は、心室中隔欠損&大動脈離断(当然、肺高血圧症)で早くに亡くなった。
短い一生だったが、俺の大切な大切な宝物だった。大好きだった。本当に愛してたと思う。
亡くなったときの喪失感は今でも消えない。
1の気持ちが分かる気がする。
でも、娘が俺に残してくれた言葉が今でも心に残る・・・
「私の分まで、元気に楽しく長生きしてね」って・・・
こんな映画あったよな。あれは泣けた。ニコラス・スパークス原作のな。
何度見ても泣ける
釣りとか言ってる奴は泣いてるのを隠そうとしているのだと思うとさらに泣ける
重工マン?
名古屋の港にでっかい工場ある