暇なので、昔話するの!!-小児癌治療-
1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2010/07/23(金) 18:52:00.57 ID:lNdYU+bS0
a.正直に昔話する
b.素直な昔話なんかききたくない。燃えいや、萌えをよこせ
はじかれたので、腐ってて、念のために、というか遊びで萌え風味にスレ立てしたら立ってしまったというわけです、はい
いや、別にスレ立てたけど、どこにあるか探しているのに時間がかかったわけではないんだ。本当に!!
お前の自分語りなのか
寓話的なほうの昔話なのか
うーん、リアルに焦っております。当方、なにゆえ若造ゆえご容赦を。
昔、小児病棟にて小児癌治療を経験したものです。って内容なのだがよいだろうか……
くらい?
目的は小児癌でも生き残れるっていうか、そのあとでも普通に生活できるということを伝えたかったからかな……
ちなみに闘病? 当時は自分が癌だなんて思ってなかった。
とりあえず、中二だったし、なにより自分の状態に対処するので精いっぱいだったから自分がどんな病気か考えることもなかった。
ちなみに入院期間は半年。癌のレベルは3? とか言ってた。ちなみに特殊な癌なので、転移は無かった。
病院にかつぎこまれるまえは、中学で陸上やってた。
走ってた、ただひたすらに走ってた。しかも、自分少し太り気味。先生むっちゃ厳しいし、走りこみキツイから嫌だった。でも、なんか自分はやれといわれるとなんとか真面目にやろうとする傾向(ようはビビリ)なので、
人一倍真面目に練習やった。夏には痩せて、足も学年で二番目ぐらいの速さになってました。ぶっちゃけ、このころから熱中症になりやすかったり、疲れやすかったり、筋肉痛が一週間ちかく続いたり、今考えると体調がおかしかった
でも大した病気を患ったことはなかったので、まぁ、今は少し体調悪いんだ、ぐらいに考えてずっと練習を続けてました。
本格的に悪くなったのは、冬頃。在る部位で痛みが始まって、夜もろくに眠れん日がつづく。でも部活あるし、学校いかなきゃいけない。
微熱も続く。けど、その前から結構体調くずして休んでるから、かーちゃんにはずるやすみ→不登校? みたいに思えたみたいで、朝体調悪い、休みたいっていうと
いつもぶったたかれて学校生かされた。その時の俺の楽しみはジャンプだった。正直、ワンピとハンターハンターが俺のメンタルを支えてた……
今考えると、癌ってやつはだんだん身体を侵食してたんだな。本当に微熱とか嘔吐とか不眠が続くんでかーちゃん心配になって、俺を病院に行かせた。
町医者2つと、脳外科1つ。脳外科でCTとって脳に異常がないって分かっとき、たぶんかーちゃんの中で俺の不登校(ずる休み)説が確定したらしく、症状きつくてしんどくても薬飲まされて学校生かされた。
ちなみにこの薬が町医者でもらった抗うつ薬? みたいな奴と、きつい痛み止めで飲むと痛みが吹っ飛んでた。後に病院入院時にあまりにも強すぎる薬なんでって取り上げられた代物。だから、今でも自分町医者信用しない。
自分の学校での立場は特にグループに属していない真ん中ぐらいのふわふわした感じで、どんな友達ともマンガとかテレビ番組とかの共通言語とボディーランゲージ(田舎だったので)とかでコミュニケーションをとってた。
まぁ、総じてクラスの連中は良い奴が多かった。人間だから自分とも合わない奴もちらほらいたが、それでも田舎ながらの雰囲気で育っていたので、今思えばみんな素朴な感じだったと思う。
病気にかかってから、いくらか変わるんだけど、いまでもクラスの連中があんまり変わらずに接してくれたことには感謝。
見てるよ
しかしこんな話になるなんてスレタイからは想像もつかないだろうな
>>22 コメさんくす。うれしいっす!
このときはつらい、キツイ、神様助けてってずっとおもってた。悪いこと直すから痛み無くしてとかも考えてたと思う。マンガとかで病人が考えることが結構該当してるから笑えない。
入院の名目は検査入院だったらしい。だからMRIとかCTとか全身でとって、結果(治療方針)出るまでに一週間ぐらい小児病棟にいたと思う。付き添いはとーちゃん、かーちゃんのローテーション。
痛い、熱出す。意識もうろう→アイスノン+氷枕で熱下げる の流れで一日が過ぎる。睡眠時間は三時間とか四時間。痛みと熱で目が覚めて、誰かに手を握ってもらうと安心して、っていう今思うとけっこう恥ずかしいことしてた……w
あと、主観的には痛みが継続し続けると時間が長くかんじるんだなぁって思ってた。全然時計の時間がすぎないの。当時は病院いけば今の自分の病気なんて2週間ぐらいで直してくれるんじゃないかという、浅はかな考え抱いてたから、これも笑えるんだがwww
本格的に体調が悪くなって、くったものは気持ち悪くてほぼ戻すようになったのは中二の四月。
薬が効いてないと常にひどい痛みがあったから精神的に結構限界がきてた。
それでもなんとか学校言ってたのは陸上やってて体力がけっこうあったからだと思う。
けど、やっぱり限界がくる。長期間、ここまで体調がおかしいの、本当にどこか悪いのではないかと考えたとーちゃんが総合病院連れてってくれた。
ちなみに即入院。その時は痛くて対して歩けず、横になってても熱と痛みでつらかった。
治るんだって、想像してた二週間なんてあっという間に過ぎて、そこから自分の考えが甘かったことに気がついた。
特に困ったのは左腕に刺した点滴。なんか鎖につながれてるみたいで嫌だったし、なんか身体に針が刺さってるって思うと左手動かすのが怖かったから。
けど、体調が良かった日も合ったし、そんな日はマンガを読んでたから、少しは楽しみもあった。ちなみににーちゃんが差し入れてくれたマンガ、シャカリキとかメ組の大吾とかだったと思う。
また一週間ぐらいたった後の頃かな。
カテーテル(自分の場合は胸にプラスチックの管みたいのを血管に直接つなぐ)手術してから、二人部屋にうつることになった。
なんでこれやんないといけないかというと、抗ガン剤をつかうのに必要だったから。あと、採血の時に注射針を毎回さすと血管が細くなるからとも言ってた気がする。
自分はドア側に近い部屋で窓はもう一人の子が居るほうにある。
二人部屋だから、六人部屋だった頃より広いかなって思ったんだけど対して個人的なスペースは変わらなかった。
となりにいた子をA君は、男の子でより一つ歳が上。ひっこしおわって部屋で落ち着いてごろごろしようとした瞬間、話しかけてきた明るい外交的な子だった・
それと同時期に院内学級の先生が訪問してくれて、もしよかったら遊びにこない? 的な誘われ方をした。
正直、ポカンとしてたと思う。同時に、自分は本当にすぐ退院できないということを悟った。
けど、友達いなくてさみしかったのもあって、体調がよい日に一応見学しにいった。
目に飛び込んできたのは……
卓球台
ナースセンター脇にある通路はガラス戸があって、向こう側には卓球台。
卓球部なくて、なくなく陸上部に入った自分はテンション上がりました。
ちなみになぜ卓球台があったのかは、謎です。多分寄付的なものだと思うんですが、娯楽の少ない院内の子供のためっていう気もします。
後は軽くA君がどのように勉強しているか見せてもらって、見学は終わりました。
でも、見学終わった後あたりに抗ガン剤治療が始まって、一週間ぐらいは学校行けなかったです。
一回目の抗ガン剤治療が終わった後は、暇だった。抗ガン剤ってすげー気持ち悪くなる。さらに病気の持つ熱と痛みがミックスされて、良くわからない状態が結構続いた。
痛み止めも結構処方してもらったし、一週間を乗り切るのはつらかった。姉貴とかがこのときは付き添ってくれたけど、小児科ゆえの子供の泣き声と空調の悪さに体調崩してたから申し訳なかった。
家族中にかなり心配されてた、という現状をつかみきれず、わがままいって迷惑かけててたと思う。
相手の負担になってるのに、フライドチキン食いたいとか、あんまり周りの介護疲労を考えてやれなかったのが悔やまれる。
みんな仕事とかでいそがしかったのに、週3、4回は必ず来てくれてた。
しばらくたってから、放射線治療も始まると告げられてたが、始まる時期は一週間ぐらい先らしかった。
まだ痛みはいくらあって、気持ち悪さを結構あったけど毎回飲む薬のおかげか入院当初より痛みが増しになっていた。
良く聞く抗ガン剤による頭髪抜けも経験せず、院内学級いって大富豪、時々勉強っていう具合の結構楽しい日々が続いてた。
院内学級にいってたから、そのあとも出席日数の問題で進級できないってことも無かったし、症状がひどい時はちょっといってただけなのに出席にしてくれてたとかいうことがかなりあって、高校入学の時に非常に助かった記憶がある
ご飯タイムらしい……。ちょっとはずれますノシ
はいよ
待ってるぜ
飯終わりました。皿洗いさせれてて、時間かかりました。保守感謝です!!
院内学級は本当に楽しかった。
先生が色々きてくれるんだけど、週に1回ぐらいで外の中学の先生が美術とか教えてくれるんだけと、美術好きな自分には楽しかった。
先生一人対生徒三人っていう結構豪華な、環境で教えてもらっていたのと先生がやたらと優しいので幸せだった。
生徒三人とはA君、自分の他にC君という子が居たからだ。
C君はA君や自分と違って熟練の病人、といっても過言じゃないほど小さな頃から入退院を繰り替えしていた。
そのせいか年の割に背が小さく、はじめ見たときは小学生(低学年ぐらい)に見えた。だから、中学生といわれてかなりびっくりした。
身長でいうとA君>自分>C君
Aくんは身長高くて高校生かと思いました。ちなみにA君は卓球部だったので、廊下にある卓球台でC君ともども卓球を教えてもらってました。
まぁ、みんな仲良く点滴台を引きずりながら、チューブの長さを調節しつつ遊ぶという特殊な光景でしたがw
でも、日々、治療は進んでいきます。
放射線治療っていうのは、はじめに放射線あてる部位に合わせた固定用の、ギブスみたいなのをつくってから、放射線を毎日ちょっとずつあてていく。
だから、はじめは全く体調に変化が無い。けど、しばらくたつとだんだん症状が出てくる。まず、口内炎、髪抜ける、唾液腺つぶれる、ホルモン障害などetc
特に口内炎はひどかった。食べ物たべれないし、薬のめない(バクタという大きな錠剤が口内炎できてる喉に引っ掛かっていたい)、しまいには水でさえ痛くなってくる。
だから、時折ウィダインゼリーとか食べながらもほとんど食事をとらないで点滴のみで生きている生活が続いた。
かーちゃんとっても嫌がったけどね……。痛いもんはいたいから、子供的には食いたくない。んで喧嘩とかもよくあった。
ふむ面白いじゃないか
>>37 うれしいっす! ちなみになんか質問あったらカメでよければ適宜答えるっす。
蛇足だけど、病院食自体はまずいものではないんだ。
栄養士さんとか料理作ってくれる人が考えて作ってくれてるから、冷やし中華とかカレーとか春巻きとか飽きない料理を提供してくれるし、
おかゆ、ぱん、トースト、ロールパンとかいろいろ選択肢があった。大抵、週に一度ぐらい紙配られて、食べたいもんを選択する、選択メニューの日があったりして感動してた。
クリーン食とか、白血球値などの免疫力が低下した子のための食事とかもあって、子供ながらに感動してた。たぶん、健康で外出自由、消灯時間なしだったら天国かもしんない。
でも、ネット環境ないけどねって考えたら、死ねるか……。
電波(ペースメーカーにいくない)とかだす携帯も使用範囲限られてるし、よくよく考えればコンセントを使う電気製品を使う場合は電気使用届とか出さないといけないのでめんどくさい。
さらに蛇足だけど小児科の看護婦さんは美人多い。というか自分のいた場所の小児科は多かったww けどそれにちなんだ萌え話はない。
夢は有るけど、萌えはない。看護師さんみんなプロフェッショナル……orz まぁ、致命的などじっこナースはいないけど、強いて言うなら何回も採血する採血べたな看護婦さんは萌えかもしんないw
人間って不思議なもので一か月飯食わなくても、必要な栄養さえあれば生きることができた。
その間に、看護実習生と付属の体育館で遊んだり、本読みまくったり(マンガも院内学級に沢山ありましたブッタ・火の鳥とか)
病院内を車いすで爆走したりしてた←迷惑、担当看護婦さんに怒られた
もうこのころには、口内炎以外は、大した痛みもなく、食事などの日常生活する分には苦痛は無くなってた。
>>39
食事などの日常生活する→食事以外の日常生活
このとき自分は入院三カ月半ばぐらい。そろそろ二回目の抗ガン剤治療が始まる頃だった。
正直、抗ガン剤はなれなかった。気持ち悪いし、妙に熱っぽくなるから嫌だった。
でもこういう常に気持ち悪さがあるときは、痛みが常にあるときと同じくしてゆっくり時間が過ぎる。
院内学級もいったり(いても20分くらいとか)いかなかったりしていた。この時期はあんまり、記憶にない。たぶんずっと寝てた
前から気になってたんだが
食わなくてもう◯こは出るのか?
>>42 でます!! なんだろうか、白いフワフワした感じのやつがでる。あとは下痢的な感じの黄色? ぽっいやつ。
蛇足なことこの上ないですが、トイレの最中は、点滴の位置を心臓より低くすると血液が逆流します!
入院4か月めぐらいでAくんの性格が変わった。それまで外交的で、少しハイ気味なテンションが急に内向的なものに変化した。
曰く、治療に使っていた薬の関係で彼は性格が、というか気分が躁気味であったそうだと彼から聞いた。
性格が変わる。少しだけ、薬というものが、治療というものが怖くなった時だった。
抗ガン剤が終わったら、放射線治療が始まる。個人的には気持ち悪くなりにくいぶん、放射線の治療のほうが楽で好きだった。
なんで放射腺治療を中心にしてくれないのかとさえ思っていた。
抗ガン剤の一時的な気持ち悪さのほうが嫌で、そのあとも長期的にのこる放射線障害とかに関してはほとんど知らなかったから当然と言えば当然だった。
自分が今も残っている障害は唾液がでないこと、とあるホルモンが欠如していること。
癌治療で放射線を頭にあてたことがある人にペットボトルを持っているひとが多いのは唾液腺がつぶれているからだ。いかりや長○が癌かかったあとの会見で
ペットボトルもってたのもこのためだと思う。
少しおとなしくなったA君といつもとかわらないC君とで大富豪・卓球(4時間)しながら、時折勉強(20分ぐらい)しつつ過ごしていた。
このころになると、自分も病院に慣れてきて半分病棟のヌシ(長期滞在組)的なものになってきた。売店・カフェ・食堂・中庭どこいけば
どんな光景が広がっているか、病院内のことはだいたい分かるようになっていた。薬手帳を適当につけたり、尿や排便の回数を記録しなきゃいけないのに適当にしだしたのもこのころ。
付き添いがなくなって、よる眠れないから深夜にこっそり病院を抜け出して、デイルーム(病棟ごとについている休憩室みたいなもの)で、夜景をぼーと眺めているのも日課になっていた。
ちなみに夜のナースセンターは人員が少ないので、見回りの時間が分かっていて、在る程度隙があれば見れば抜け出すのは楽だった。あんまりやりすぎると目をつけられるけど
半月ですねわかります
>>46 半月はけっこう感情移入して読んだ。リカかわゆす。書いてないけど、院内学級には小学生の教室もあって、そこにも心臓病らしき子もいたから。
男の子でリカみたいなツンデレじゃなかったけど、お母さんと一緒に頑張ってた。というか、自分より小さい子が病院に長期間いるっていう発想がなかった。子どもながらに変な意味で世界観は広がった
当然と言えば当然だけど、自分も含めて脱走した小児はいませんでした。
逃げ場なんてないし、母親とか居る人が多いし。
いいとこ深夜にテレビを見る(テレビ見るのには一枚千円するカードを使用する テレホンカードみたいな感じで度数が減る)ぐらいの規則違反が関の山ぐらいで、
そのちょっとの違反と新刊のジャンプをを楽しみに日々を過ごしていた。
長期入院していると部屋の位置の意味も分かってくる。
ナースセンターの近くにある部屋ほど要監視で危険な状態の子が置かれやすく、
ナースセンターから離れている病棟の隅の角部屋は症状が安定している子orもうすぐ退院の子が入院していた。
院内学級に通う子はみな症状が結構安定していたように思うし、本当に名札が良く入れ替わる部屋もあったから、
すぐ命にかかわる状態にあるほど症状がひどい子を学級内で自分は見たことが無かった。
だから、自分達は本当の意味で死にかけている病人を見たことがなかった。
多分だけど、死んでしまうような終末期の子はよその階か、専門病院にうつっていたのだと最近思う。
ある意味で死に近いけど、ある意味で自分たちは死から遠かった。ゆえに、病に苦しみながらも自分には大した悲壮感もなく生活できたのだと思う。
日付変わる前にトリつけてくれ
こんな感じかな。トリつけるの初めて!
病院ライフを自分たちなりにエンジョイしていたある日、A君の退院が決まった。
このとき、自分は入院生活五か月目に入っていた。さらりとA君から告げられた時は結構ショックだった。
C君は自分よりA君と仲良かったから、かなりショックな顔をしていた。盛んに嫌だ、とか、知らんとかいって言われてから一日中ショックを隠せず、
不登校、2~3日ひきこもっていた。学校きても、変におどおどしてたからよっぽど衝撃を受けたんだと思う。
そして、一週間後ぐらいに隣室のA君が退院する日、遠くからA君とお母さんがのったエレベーターの扉が閉まるのをずっと見ていたのが印象的だった。
A君が退院してからしばらくC君は元気がなかった。
彼は長期入院だから同年代の子が友達になれない。
友達が欲しい。けど、友達の病気が治ってしまうと友達が居なくなる。自分は健康にはなれない
という苦しみを抱えていたように思う。しかし、自分ももう少しで退院してしまうことを知っていたので、なにも彼にできなかった。
このときは食事はとれるけど口内炎がかなり痛いのと、髪の毛が無い以外は特に問題なく過ごしていた。
治療も最終段階に入ったようで数回続けた抗ガン剤と放射線の波状攻撃のおかげで癌自体はほぼ治っていたらしい。
実際にはここに至るまで、採血→計算不能
MRI・CT(画像検査 輪切りになった写真が出てきて腫瘍とか臓器とかの損傷とかをしらべれまふ)→それぞれ9回ぐらい はおこない、検査結果も両親曰く経過もかなり順調らしかった。
部屋もクリーンルーム(抗ガン剤、放射線などで免疫値が低い子がいれらる)から角部屋の六人部屋に移動になり、のほほんと毎日過ごしていた。
周りが子どもの泣き声でうるさいとかは、いつの間にか慣れてて泣き声がうるさくても安眠できるようになってた。慣れって恐ろしいと思う
そうこうする内に入院から6か月ほど経ち、退院の日がきた。
退院のためにカテーテルを抜くのがやたら怖かった。
実際たいして痛くなかったからよかったけど、あれマジ怖い、なんか身体の下に通っているチュープ抜かれるのは想像するといぎゃーってなる。
多分、股間を蹴られるのにも似た嫌な感じはすると思う。少なくとも自分はした。
でも点滴台につながれなくなったのは幸せで、毎日の患部消毒もしなくても良いし、お風呂の時とか注意しなくてもいいから外れてからは生き生きしてた。
当時の意識としては勉強が遅れに遅れていたのを気にしていたけど、問題は他にあることを退院後に自分は知ることになる。
まず、筋力・体力がない。
半年間もベッドで寝たきり、ときどき大富豪と卓球なんて生活を送っていれば筋肉も衰える。
坂道で足がつりました。少しかがんでから立ち上がっただけで貧血とか日常茶飯事。
それまで、筋肉がつるっていう体験したことがほとんどなかったし、首の筋肉がつるとか衝撃的だった。
次に、唾液でない、顎開かない、味覚の変化
唾液腺がつぶれてるから唾液がまじででない。
唾液が出ないと喉に食べ物が通らないから、水が無い状態で食事すると今でも窒息する。
ポテチとかたべるとだんだん口の中の湿り気をすべて吸い取り、それにもめげずに噛み続けると油でぶよぶよする黄色いボールになる。
あと、ポテチの破片がくちにささって血だらけになる。
梅とかも唾液ないから、すっぱいものNGとなる。というか酸味全般や香辛料をつかっている料理は刺激が口にささるので痛くて食べれない。
唾液に関してはしばらくペットボトルを持ち歩くことで対処したけど、顎がひらかんのはどうしようもなかった。
たぶんあんまり顎を使わなかったのと放射線のせいだと思われる。
これで学校行けって言うのだからかなりの難易度。
正直、勉強どころの話ではない。
陸上部に戻るどころか、午前中学校いるだけで体力的に限界でダウン。
クラスメイトがそれまでどおりにせっしてくれているが、自分が体力的にも筋力的にもボロボロだから、それまでのようにはクラスの輪の中に入れなかった。
けど、適応するしかない。だから、一か月ずっとめげずに学校に行き続けた。
普通の人は小児癌の子って大変、苦しい、ガンバリ屋さん、とかイメージを抱いているかもしんないけど、
子どもはがんばってない。少なくとも自分はただ目の前の環境に適応するしかなかったから適応していっただけだと思う。
元々あったものを取り戻したい、元通りになりたいって。
病の苦しみからはどうやったって逃げることなんてできないし、向き合うしか方法はないから。
実際苦しいし、自分が体験したのは転移も再発もない癌だったからかもしんないけど、そう考えて生きてた
んでそれから、陸上部も少ししてちょっとづつ参加するようになったし勉強もした。
当然はじめは低空飛行だったけど、徐々に上向いてるのは感じた。
けど、何もかもがもと通りにはならないって気が付いてくる。あたりまえかもしんないけど、病気したら元通りになることなんてない。
それが重かった分だけ、何か元々あったものや機能がそぎ落とされて、生きながらえることができるんだと感じた。
ホルモン系が障害されてるからかもしんないけど、自分の場合はそうだった。臓器系の病気の人は特にそのことが分かると思うんだ。
医学は生きる最低限程度しか保証してくれない。回復しても、最低限。それより上は運次第、もしくは病気の軽さ次第。
生き残っても確実に何かが変質はする。人間関係の維持、学力、運動能力、行動力が社会で高いと評価されるには最低限以上のことをこなす必要がある。
このころは病前の自分と病後の自分を何度も照らし合わせてた。
たぶん、以前の自分と今の自分を比べる作業はいまでもずっと続いている。
でも、このスレ立てたのはさ、今年になってだいぶ回復してるからなんだ。
正直、高校行ってからもおかしい、自分は壊れてるとか思ってた。氷みたいにいつもつめたい手足が恨めしかった。身体が常いだるかった。生きてるのがつらかった。
大学入学当初も身体悪いから、体力ないからって卑屈になってた。夜12時こえて活動すると、目がゴロゴロして朝、ベッドから起き上がるのが無理だった。健康な奴が妬ましかった。
でも高校行って、大学にも行けて、いまだってけっこう人並みに生きれてる。
今年に入って、だいぶ体力ついて深夜まで起きてても倒れなくなったし、バイトだってするし、ランニングしてるし、仲間とはしゃげるまでにはなってる。
自分の身体との付き合い方も、唾液はそれなりに出るようになった。なんだかんだでしんどい時もあるけど、生きてて良かったと思えるからスレだてしました。
見てくれた人、サンクス! ちなみにフィクションではないです。
退屈だったかもしれませんが、ご拝聴多謝です。
回復おめ
リアルタイムで見てたID:Ie0r/pTNOだけどその日は根性なくて寝落ちしてしまった・・・
朝起きてスレ見たらやっぱり落ちてて書き込みできなくて、>>1に乙も言えなかった
このコメ欄を>>1が見るかどうかはわからないけどそれでも言わせてくれ
ごめん。そして回復おめでとう
おまいの話は確かに聞いた
俺の心に残った
本当に、乙かれさん
テレビとかでも特集されたりするが、ドラマチックに編集されてるものより、実情が知れて面白いな
回復おめ。