海軍の雑用係だった曾祖父の軍隊生活を淡々と語っていく
1:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:09:44.80ID:JNypWjEk00
ばあちゃんの家で、曾祖父が生前出していた自伝をもらってきた
俺は曾祖父とは小さい頃1、2度しか会ったことがなくて
これまでおぼろげにしか知らなかったことが、詳しく書いてあってなかなか面白かったんで
昔の資料と思って掲載画像を交えながら淡々と語っていく
ちなみに俺は軍隊のことは言うほど詳しくないので、そこは悪しからず
5:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:11:23.72ID:JNypWjEk00
さて、曾祖父は今に至るまで一族で唯一の職業軍人
親戚みんな身体が小さかったんで軍人に向かず、内心忸怩たる思いを抱いていたが、
海軍に行った先輩に「主計兵なら受かるんじゃね」と言われて主計兵になった
ちなみに主計兵とは炊事、洗濯、物品管理担当の言わば雑用係
「主計・看護が兵隊ならば蝶やトンボも鳥のうち」とか言われて、
戦闘員から見れば格下扱いだったらしい
7:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:13:02.65ID:JNypWjEk00
曾祖父の最初の乗艦は戦艦「長門」。
祝祭日は甲板上で乗員が酒盛りをしたり色々やってたらしいが
ペーペーの曾祖父には当然そんな資格も余裕もなく、ひたすら残飯運びをしていた
長門 (戦艦)
軍艦 長門(ながと)は旧長門国を名前の由来に持つ日本海軍の戦艦で、長門型戦艦の1番艦である。第二次世界大戦前は日本海軍の象徴として親しまれた。敗戦後は米軍に接収され、原爆実験に供され沈没した。
8:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:15:12.15ID:JNypWjEk00
長門の艦上でなんかやってる写真が見当たらねーな。まあいいや
曾祖父は米屋の倅だったんだが、このころ横須賀最強の男に米俵担ぎ競走で勝って
「主計のくせにやるじゃねーか」ってことで周囲に少し名が売れたらしい
10:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:16:39.92ID:JNypWjEk00
それと長門時代、昭和天皇の即位大典に警備兵として参加
十数時間、警備の列の中で微動だにできず、隣の奴とも話せず、とにかく眠くなるもんで
股をつねったり舌を噛んだりしながらなんとかやり過ごしたらしい
もちろんトイレなんか行けないからオシメをしてた兵士もいたらしい
この警備参加で大礼記念章というのをもらって、
若年兵ながら勲章を佩用できるようになって嬉しかったとのこと
12:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:17:15.71ID:JYAOl4fNO
俺なんてじいちゃんさえ俺が生まれる前に死んだわ
俺も記憶は殆どない
結婚した頃の曾祖父
109:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:34:59.11ID:hagywqZo0
曾爺ちゃんイケメンすぎワロチ
14:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:18:57.46ID:JNypWjEk00
あった、長門の艦上で仮装会してる写真
たぶんひいじいちゃんは映ってない
15:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:19:32.08ID:3S/5Bx9l0
16:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:20:07.60ID:JNypWjEk00
その後、曾祖父は空母「鳳翔」に異動。
このころ、横須賀で女給カフェーという今のメイド喫茶のようなものと風俗にハマりまくり
それを同年兵が手紙で両親(俺の高祖父母)にチクったため、
心配した両親に強制的に嫁取りさせられた。
結婚直後、鳳翔が上海事変の平定に差し向けられたため、新婚生活は2日しかなかったそうな
鳳翔 (空母)
鳳翔(ほうしょう)は、日本海軍初の航空母艦で同型艦はない。この名を持つ日本海軍の艦船としては2隻目。
17:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:20:09.39ID:7uJLYQdb0
聞くわ
面白そう
21:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:23:17.24ID:JNypWjEk00
鳳翔は上海事変の平定に大いに役立ち、その戦闘ぶりが日本のニュース映画で流れた
そこにジャガイモの皮むきをする曾祖父の姿が映り、それを見た故郷の人から
「上海まで行ってジャガイモの皮剥きとは御立派ですね(笑)」
と小馬鹿にしたような手紙がきて腐っていたら、
上官から「お前が剥いたジャガイモが我が航空隊の戦闘力の源なんだぞ」と諭されて
「主計兵として誇りを持ってやっていこう」と思い直したらしい。
ホンマ、上官殿の優しさは五大陸に響き渡るで……
22:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:25:02.76ID:JNypWjEk00
えらく戦果を挙げたらしい艦載機との記念写真。機種は俺の知識では分からない
車輪の真横に立ってるのが曾祖父。三曹に出世したので水兵服じゃなくなった
23:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:26:05.13ID:fjy+CdQV0
締まった顔してはるわ
しかし風俗にはまっていたわけだが
24:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:26:50.70ID:JNypWjEk00
三曹になってから、曾祖父は横須賀の海兵団で主計兵の教員になった
最初は座学と実習の助手程度だったが、やがて調理の専務教員になった。
志願兵や徴兵者の中には元板前なんかもいたりするので
とても自分には教えられないと転属を願い出たが聞いてもらえず。
仕方ないので、最初は経験のある兵士をおだてて前に出して、
「ほら、こうして○○がしているように盛りつけるのだ」とか言って誤魔化しながら
やってるうちに、なんだかんだ一通り何でもできるようになったらしい
26:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:29:10.50ID:JNypWjEk00
ちなみに兵士に対しては
刺身、酢の物、焼き物、煮物、揚げ物、蒸し物、丼物、寿司、
コンソメ、ポタージュ、ホワイトシチュー、ビーフシチュー、ステーキ、フライ、
ロースト、サラダ、サンドイッチ、酢豚、シュウマイ、ギョウザ、ワンタン、八宝菜、
最中、羊羹、らくがん、饅頭、スポンジケーキ、プリン、アイスクリーム、シュークリーム
などなどを教えていて、教員にも東京ステーションホテルの料理長を招いての研修があったらしい。
ちなみにその料理長も元は主計兵で、他にも退役後に料理人になった人はたくさんいたそうな。
27:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:30:18.89ID:JNypWjEk00
教員を3年やったあと、曾祖父は連合艦隊司令部勤務になった
仕事は接待や宴会のセッティングを取り仕切ることで、
メニューの決定やら食卓の並べ方やら座席の配置やら招待状書きやらをしていた
なお、字が下手だったので招待状書きは袖の下で代わってもらっていた模様
29:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:31:47.40ID:JNypWjEk00
ある午餐会で伏見宮殿下が出席されたとき、
カクテルを所望されたがその場にいた人間の誰もやったことがなく、
「おまえ、色々経験してるんだから見よう見まねでやってみろ」と曾祖父が指名されて
参考書を見ながらバーテンの真似事をしてみたら、出来上がったカクテルの評判が案外よく「戦闘艦上でカクテルが飲めるとは、さすがは連合艦隊である」と褒められたらしい
30:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:32:30.74ID:5VO2L2KV0
分からん。食ったんじゃないだろうか。調理教員だし
31:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:33:32.02ID:JNypWjEk00
連合艦隊勤務の最中には二・二六事件もあった
事件発生を受けて別府から東京湾に急行したあと、由布という法務官と
曾祖父だけが艦から降り、曾祖父の方は「とりあえず新聞をありったけ買ってこい」と
命令されて自転車で新聞を買いに走ったが、雪道もあって途中で自転車がぶっ壊れて転び、半泣きで自転車を直してやっとの思いで新聞を持ち帰った
歴史的事件の裏にあった情けない話だが、それでももし陸軍の反乱部隊に見つかったらと思うと恐ろしくてたまらなかったらしい
33:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:35:07.25ID:JNypWjEk00
連合艦隊司令部勤務は1年で終わり、曾祖父は横須賀に戻って再び教員になった
特にこの頃はエピソードもないようだが、兵士を対象にテーブルマナーの講習があったようでこの辺りは何というか、さすがスマートさが売りの海軍だなと思う。
34:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:36:01.86ID:5VO2L2KV0
銃だったり船についてる大砲?だったり
売店の管理とか、衣類の管理はしていたらしいけど銃器類の話は出てこないなあ
だんだん飯炊き専門になっていったみたいだし
35:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:36:30.13ID:qxsTnUbx0
主計というか烹炊だと『海軍めしたき物語』なんてのが有名だね
機関科や主計科など戦闘の表舞台には出てこない部署の話は興味深い、支援します
37:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:37:33.25ID:JNypWjEk00
曾祖父が講習者研修で作った懐石と、テーブルマナー講習の集合写真。
集合写真は白衣の左側が曾祖父。この講堂は曾祖父が設計したらしい
曾祖父の隣の白衣の人は上官で、一兵卒で入って少佐にまでなった凄い人らしい
39:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:38:09.81ID:Mlmb/vdT0
海軍は片手を膝に乗せて飯食うんだよな確か
狭い艦内では両手を机に乗せるのも邪魔になるしな
41:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:40:40.77ID:JNypWjEk00
横須賀の後は、イギリスが対独宣戦布告し、日本周辺でも満州事変、日支事変が起こり、 いよいよ戦時色が強くなっていく。曾祖父は南京基地隊に転属になった。
転属して正月早々、便衣兵が不穏な行動を起こしていると言うことで鎮圧に向かわされたが海軍で採用されたばかりの第三種軍装で行ったところ、先発の陸軍に中国兵と間違われて射撃を受け、あやうく友軍衝突になるところだったらしい。
一種軍装は紺だが、三種軍装はカーキ色で、陸軍はまだ新装を見たことがなかった。
その後、曾祖父は空き家を借りて宿営地にして、飯を炊きながら待ってたら
便衣兵は陸軍が掃討してきた。
43:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:42:22.06ID:JNypWjEk00
その後南京を拠点に、各地の部隊に炊飯の指導に行ったりしていたが、
小部隊が色々なところに点在するようになっていたので、主計兵がいない部隊があったりしてそういうところは1週間分の糧食を無計画に使ってしまったり、ずいぶん指導に苦労したらしい
そのうち調理経験のない兵士にも簡単に料理ができる方法や保存食の作り方を曾祖父が考えて、それが参考書の形になって各部隊に配布された。
これは軍の運営上なかなか重要だったようで、曾祖父は曹長に昇進して
海軍経理部長の紺野少将という人から直々に慰労の手紙を貰ったらしい
47:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:46:14.89ID:qxsTnUbx0
兵卒から少佐って上れるとこまで上り詰めた人じゃないか
その上官もそうだけど>>37や>>43のエピソードからすると>>1のひいじいさんも優秀な人だったんだね
44:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:44:11.81ID:Mlmb/vdT0
虜人日記とか面白いよな
こういう人の指導とかもあったのかもしれんな
45:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:44:17.98ID:JNypWjEk00
南京の勤務は1年で終わり、今度は舞鶴鎮守府の勤務になった。
事実上お役所づとめのようなもので、代用食の研究をしていたらしい。
あるときは参謀長以下高等官の奥様連中を相手にお料理教室を開いて、
チャーハン、うどんサラダ、葛饅頭の作り方を教えて、
その様子が新聞に載ったりしている。
それと抜刀術の全国大会に出されたら完全にまぐれで10位入賞して
靴下10足もらったり、まあこのころは呑気にやっていたようだ
46:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:45:53.18ID:JNypWjEk00
お料理教室の様子
この奥様方は、曾祖父が少尉に昇進したとき軍帽を贈ってくれている
48:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:46:46.26ID:qJHlWo9e0
兵士は、『生活』だけど、殆ど表に出ないからな、そういう部分は
だから、こういうのは中々に興味深い
49:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:47:46.58ID:JNypWjEk00
少尉に昇進して分隊長になったあと、第五十一根拠地隊の掌衣糧長として
北方アリューシャン列島のキスカ島に赴任した。当時は日本名で鳴神島といったらしい。
アリューシャン列島はアラスカ防備の関係からアメリカ軍が戦力を傾け始めたので
キスカ島にも連日米軍機か来襲するようになって、
曾祖父にとっては初めての戦場らしい戦場になった
滞在中の日誌が細かく収録されてるので、以下かいつまんで載せてみたい
キスカ島
太平洋戦争中の1942年6月、ミッドウェー作戦の陽動作戦として同じアリューシャン列島のアッツ島と共に日本軍に攻略された。 アメリカ軍による奪還作戦が決行され、日本軍守備隊と交戦。物量に勝るアメリカ軍の猛攻と周辺海域をアメリカ海軍艦隊に包囲され、物資の補給は滞り、ついに救出作戦が決定された。 1943年5月にアッツ島をアメリカ軍が奪還すると、キスカ島でも緊張が高まった。その結果、戦略的意義が再検討され、キスカ島より撤退することとなった。幾度となく日本海軍救援艦隊が派遣されたが、気象状況(濃霧)や米艦隊の展開に阻害され、ようやく木村昌福少将率いる救援艦隊(第五艦隊)により、1943年7月、無事救出された。
51:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:49:38.96ID:JNypWjEk00
●1月1日(金)晴後曇風強けれど暖かし
大東亜戦争下第2回の新年をこの北辺の要衝最前線中の最前線たる鳴神島に於て迎う。
武人の本懐これに過ぐるはなし。昭和15年元旦を南京城頭にて迎えたる感激に比し。
表面感興湧かざるは如何なる心境の変化か。
0300起床。若水の冷たさに清心の気張り、庁舎内神社にて詣でたる後、
未だ明けやらぬ山の中腹に我等の手を以て成れる鳴神神社の社前に進めば、
一切の邪念去り虚心の境に至る。敬しく拝礼を済ませ、頭を回して湾内を望めば、
薄明き視野に展開する風景は、長閑なる漁村のそれの如く、向島の東方には
瑞気に似たるものすら感じ、日々の激戦継続する地の如き様子全く感じ得ず。
内地の霊域にある錯覚さえ覚ゆ。
戦地に見られざる内地色豊かなる雑煮を祝い、0445遙拝式。
0840、B26・6機、P38・15機、PBY・1機、来襲。0944、P38・2機撃墜の戦果を挙げ、
元日早々の投弾は全部海中に落ちて陸上被害なし。船団にもさしたる損害なきものの如し。
夕食の際、聖寿の万歳を三唱し祝杯を挙ぐ。
52:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:50:11.69ID:Mlmb/vdT0
いいスレだわ
山本七平『日本はなぜ敗れるのか 敗因21カ条』
を引っ張りだした
53:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:51:06.61ID:qJHlWo9e0
口語でなく、文語なのがまた
54:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:51:32.34ID:JNypWjEk00
●2月26日(金)曇、暖かし
午前2回対空戦闘発令せらるるも、機影を見ず。昼食終わるや直ちに重爆12機来襲。
銃爆撃をなすと共に焼夷弾を投下す。ために戦死5、軽傷7を出したるほか、
各兵舎に若干の被害を受けたるは残念なり。されど重爆3機確実に撃墜、
2機を大破せしめたり。伊169潜、伊171潜入港す。
●3月17日(水)快晴、暖かし
昨日の8回に亘る来襲に徴し、各自の意見期せずして壕内事務室の設置に意見一致し、
終日準備により大体卓の配置にまで至る。
昨日に劣らぬ執拗振り、のべつ幕なしには、一寸(ちょっと)閉口する。
敵機も6機撃墜され、七夕海面に敵兵泳ぎ居たる由なるも、その後の消息不明なり。
本日の天気は終日快晴にて春の来たるを如実に実感す。
55:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:52:57.98ID:JNypWjEk00
●3月31日(水)曇、夕刻より風強し 当直将校
小職当直将校の名に恥じずやって来る、やって来る。来襲すること第7次に及ぶ。
(注:曾祖父が当直の時によく敵機襲来があったらしい)
戦果また燦たるものあり、特に重爆を直撃により松ヶ崎砲台付近に撃墜せしめたるは、
思わず快哉を叫ぶ。大発(ダイハツ?)にて戦利品を持参す。
敵の救命装備完全なるは一驚に値す。陸上にも死体落下せるありと、
B24・2機撃墜1機大破、B25・1機大破の戦果に昨日散華せる英霊以て瞑すべし。
本日の被害、兵舎小破さるるも人員異常なし。1500過ぎまで重爆の来襲ありしは注目を要す。
79:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:13:09.14ID:BdTk6e6P0
あんがと。ダイハツが当時からあったんかと思ったわw
56:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:54:37.86ID:JNypWjEk00
●4月18日(日)晴時々雪ちらつく暖かし
午前の爆撃により五警庁舎に直撃を受け、見張り所も吹き飛ばし、
対空戦闘の旗も揚げられ得ぬ状況となる。ここ5、6日の連続猛爆に地上建物は殆ど満足なものなし。
されど生々しき新戦場に爆音さえなくば、春陽大地に輝き湾内は浪静かにして、
平和郷の如き錯覚さえ生じしむ。さりながら戦争というものの味わいを
一層深刻に感ずるは如何なる訳なるか。
この辺りからだんだんヤバそうな感じになってくる
58:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:55:50.80ID:JNypWjEk00
●4月20日(火)晴、暖かし
全く晴天の続くことよ。
アリューシャン、といえば年間太陽に恵まるる日は2、3日と聞き及びたるに
余りにも認識の差甚だしきにがっかりす。本日来襲回数7回延67機を算す。
このままにて推移するとき、戦局の帰趨計り難きものあらん。
待望の陸上機用飛行場も望み薄となり、眼前の戦況に一喜一憂は最後の勝利獲得に
利なきものと知り、且つは部下に対しこれを諭しながらも斯かる心理となるを如何にせん。
60:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:57:16.59ID:JNypWjEk00
●5月22日(土)曇、霧、暖かし
四方の山々、緑を含み、ここ鳴神の島にも春の気配濃し。
自然の力は強く、昨秋来の猛爆にて、ツンドラの芽を吹くところもなきかと思いしに、
春の装いは着々と整えられ、飛び交う名も知らぬ小鳥まで、
何となく生色立ち返るかの鳴き声に聞こゆ。
本日重大ニュースあり。山本GF長官戦死さると。惜しき哉、我等の提督。
口惜しさ筆舌に尽くし難し。
61:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:59:06.84ID:JNypWjEk00
●5月31日(月)晴、暖かし
熱田(隣島のアッツ島守備隊)遂に消息を絶ちたるものの如し。
それかあらぬか、本日午後数度に亘り戦闘機来襲す。いよいよ矛先をこちらに転ずるや。
●6月22日(火)曇、霧、暖かし
伊七潜玉木司令散華せるを聞く。実に感無量なり。
我々を生かすために斯かる犠牲の続出するならば、いっそ本島の花と散らんと心から思う。
夜中七潜敵と交戦遂に相当の犠牲者を出したるものの如し。2100より2300まで砲声かまびすし。
63:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 20:59:39.26ID:cEeqSUJi0
うん。初めて知ったんだけど、なんか奇跡の作戦と言われたらしいね
65:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:02:05.09ID:JNypWjEk00
アッツ島守備隊は玉砕して、キスカ島守備隊は撤収ということになった
撤収作戦が発令されたときの日誌
●7月7日(水)曇、霧、暖かし
ケ号作戦(注:撤収作戦)発表。主計長の元に一同会し、種々打ち合わせを行う。
首席参謀より更に詳細の説明あり。諸道具の準備を計画す。
1205、敵巡洋艦3、駆逐艦4以上より発砲を受く。発砲数約500発なりと。
1235撃退、我に被害なし。敵艦の動静案外アッサリと引き揚げたるはいぶかし。
67:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:03:57.29ID:JNypWjEk00
ここから先の日記は「準備してたのにまた決行延期」の繰り返しなので省略。
結果から言うと、ケ号作戦は無事成功し、全部隊が撤退できた。
ただ曾祖父は、撤退の準備と、もし作戦が上手く運べない場合の籠城戦の準備という
相反する準備を並行してこなさなければならなかったので、大変だったようだ
ちなみに7月7日に言ってる「諸道具の準備」とは、撤退後米軍に残存施設を渡さないため時限爆弾を仕掛けていた。それでいて何度も決行日が延びるものだから、
自分が仕掛けた爆弾があるのを忘れてトラップに引っ掛かって亡くなった兵士もいたらしい。
68:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:05:56.93ID:JNypWjEk00
ちなみに、島では3頭の軍用犬を飼っていたが、撤収に当たり乗員は可能な限りの軽装で不要なものは船外に捨てなければならないという決まりになっていたので、
島中にエサをバラ撒いた後、泣く泣くそのまま置いてきた
准士官だった曾祖父は最後の便で島を離れたんだが、海岸でその3頭がいつまでも鳴いていてそれが生涯忘れられない光景になったそうな
70:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:06:05.51ID:8w+OSFLB0
>敵の救命装備完全なるは一驚に値す
日本はそういうの度外視してたからな……
71:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:08:11.71ID:JNypWjEk00
日誌を見てると苛烈な戦場で実際凄まじい猛爆を毎日受けてたようだが
それでも曾祖父は毎日魚や昆布を取ったり、食える野草を発見して
食べ方を研究したりするのはとても楽しかったらしい。
あるときアシカを食べてみたらしいが、「照り焼き及び「シチュー」にし試食するに、
臭気強く肉固く美味ならず」ということだった
72:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:09:06.67ID:YaLGeqZy0
やっぱりこういう記録を読むと前線の人たちは頑張ってたのがわかるな
73:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:09:16.19ID:GcEfbLzCO
喜ばれるのかなー。有名な作戦みたいですでに先行研究は色々あるらしいよ
まあ、日誌はこれでもかなり削ってはいるんだけど
95:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:21:39.21ID:qxsTnUbx0
作戦の研究とかマクロな意味ではそうなんだけど、戦地での兵士たちの生活とかは
一人一人の日誌とかを地道にあたらなければならないし、まだまだ未開拓な部分が多いよ
そういう研究している人達にとっては貴重なものかと
自伝というのが自費出版なりされてある程度世間に出ていても、原史料にあたりたいと思うものだし
77:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:11:48.92ID:JNypWjEk00
キスカ島守備隊の准士官以上集合写真と
サケだかタラだかをゲットしたときの記念写真。どう見ても世界のナベアツ
集合写真は後列左端が曾祖父。他は前列中央が司令官の秋山少将という事しか分からない
80:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:13:10.18ID:qxsTnUbx0
なんとかして美味いものを食わせてやりたい、食べたいというのは
戦地で食に関る話だとよく出てくるね
北海道にトドカレーなんてのがあるけど、海獣は脂臭くて臭み抜きをしないと食べ辛いという話もよく聞く
84:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:14:23.40ID:+xdqSgxS0
写真とか残ってていいなあ
ウチの祖父ちゃんは満州で事業をやって大層成功していたらしいが、
終戦後ロシア人、中国人、朝鮮人に時計も家財道具も一切持っていかれたそうだ
85:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:16:17.74ID:qJHlWo9e0
>>84
うちの爺さんも、満州で炭鉱の主任だかやってたそうだが、主な労働力の中韓の人間を酷使していたのは、殺されたとかなんだとか
86:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:16:35.15ID:JNypWjEk00
キスカ島の後は千島で庶務の担当になったが、新たな辞令を待つ間
スキーの訓練をしつつ夜はビール片手に海で捕まえた蟹を食ったりしてたらしい
スキーの訓練では遭難しかけて大変だったらしい
その後舞鶴鎮守府勤務に戻ってから中尉に昇進し、周辺の米麦耕作や獣魚の養殖の
指導に当たってたが、じき終戦となった。
87:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:16:41.68ID:Mlmb/vdT0
やっぱ日誌なのがいい
虜人日記もそうだけど当時の常識で当時の言葉で当時に書かれているのは貴重な資料
後の時代に記憶を語る資料より万倍も貴重だと思う
88:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:18:35.40ID:JNypWjEk00
玉音放送はなんだか皆ほっとしたような顔で聞いてたんだが、その後海兵団の副長が
「当海兵団は在外友軍の引き揚げの基地となるだろうから、その戦友達に少しでも
温かい心をもって迎えるため、各科物資の散逸を防げ。海軍がしっかりしておれば
必ずその国の立ち直りはできるのだから、くれぐれも自戒するように」
と訓示されると
89:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:19:47.65ID:JNypWjEk00
大事なところが切れたw 皆おいおいと泣き出したらしい。
曾祖父の最後の軍服姿
94:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:21:16.99ID:JNypWjEk00
その後曾祖父は海軍をやめて故郷に戻り、GHQに退職金と恩給を
全額取り上げられたりしながらも、せっせと働いてスーパーやら何やらを経営し
町の議員をやったりした末に、最後は風呂で寝てたらそのまま沈んで亡くなり、
葬式で「水に沈んで亡くなるなんてやっぱり海軍さんだねえ」なんて言われていましたとさ。
めでたし、めでたし。
98:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:23:28.29ID:iXTEtXSy0
死因が風呂で水没か
99:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:23:53.83ID:8w+OSFLB0
うちの婆ちゃんと同じや
100:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:23:58.47ID:JNypWjEk00
三等兵で始まって、たかが主計と嘲られながらも中尉まで出世したのだから
頭のいい立派な人だったんだろうと思う
親父に言わせると、会うと必ず「今後の方針」を事細かに聞かれる上、その後は決まって
「俺がお前の年の頃には……」と説教に流れ込むのでちょっと苦手だったらしいが
ちなみに曾祖父は船酔い体質で、発艦のラッパを聞くだけで気分悪くなるんで、
鳳翔以降はずっと陸上勤務だったw
自伝に載っていなかった、祖母から聞いたこぼれ話では
曾祖父は絵がなかなか上手く、上官向けに春画を描いていたらしい
もちろん食える野草のスケッチを取ったり、仕事にも活かしていた
103:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:25:29.69ID:JNypWjEk00
それと、曾祖父がある日一度だけ買ってきた「どりこの」という飲み物が
この世のものとは思えないほど美味かったそうな。
その1回しか飲んだことがなくて、祖母は「もしかするとあれは夢だったのかねえ」なんて言ってたがスマホでググったら一発で出てきたんでネットの威力に平伏してた
あんまり美味そうに語るんで飲んでみたいが、レシピがなくてもう作れないんだってね
どりこの
どりこのは昭和時代前期に大日本雄弁会講談社(講談社)から発売された、滋養強壮を謳った清涼飲料水。
105:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:26:58.55ID:JNypWjEk00
そんなとこでありんした
ご静聴どうもありがとうございました
106:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:28:31.14ID:GcEfbLzCO
おつ!
ひいじいちゃんバイタリティ溢れてる上にきっと天運もあるんだろうなw
かっこいい
107:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:30:20.64ID:UTRxXHp70
生々しいな
特に日記の部分
112:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:37:21.72ID:qxsTnUbx0
キスカもそうだけど千島にいても終戦までには本土に戻れたり、運もよかったんだね
日誌をつけていても戦地で失ったり戦後に処分したりすることがあるので、残っているものはやはり貴重なものです
何より、それが研究者や趣味人の対象でなくともご先祖様の遺物ですものね
おつでした!
113:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2012/02/20(月) 21:37:42.08ID:3S/5Bx9l0
いい資料だった
奇跡の作戦での生き残りというだけで誇れるよ
まじかよ。おれのじーちゃんも主計兵長で長門に乗ってたぞ。
この後俺のじーちゃんの戦果レス
母方のじいちゃんは亡くなったし
父方のじいちゃんはボケてる
ちゃんと話をきいとけばよかったって
こういうの見ていつも思う・・・
※1と>>1は親戚なんじゃないか?w
俺の祖父は終戦直前で神風特攻隊に乗せられるはめになったらしい。
けどもう突っ込む飛行機さえ尽きたらしく、結局乗らなくて済んだのだが。
前から列で順にどんどん飛んでいったらしいから、前の方に並んでたら命なかったのかもしれないな。
あと一緒に生き残った戦友ともなると親友以上の絆があるらしく、かけがえの無い一生の友人らしいね。
オレの祖父はインパール作戦から生還したが・・・
日本に帰ってすぐ亡くなった。
残念ながら>1みたいな話は残ってないようだ。
何気に>>1の文才がすげえ
優秀な一族なんだろうな
日本は負けたから悪にされてるんであって、本質的には戦争に正義も悪もないんだよな。強いて言えばどちらも正義なんだ。
先人たちを悪に仕立て、実情を省みようともせず、平和だの軍靴だのと叫ぶマスゴミや日教組、エセ市民団体は唾棄すべき存在なんだよな。
そういった歴史があったのだということを俺たちが知り、それを正しく後世に伝えていきたいものだな。
おじいさんに敬礼であります! 俺のじいちゃん二人も海軍だった。生前は、ほとんど会うことも話すことも無かったけど、今でも時々頭に浮かぶよ。色々話しを聞ければ良かったなと思う。当時の戦争の正否は判断が難しいけれども、家族や国を想う気持ちは無駄にしたくないですね。今、違った意味で難しい時代ですが、平和を継続していけますように。。。
海軍の懐石こじんまりだがけっこうちゃんとしてるな
はじめて見た
うちの爺さんは捕虜の監視
前線にいて戦う訳じゃないから普通に日本語の話せる捕虜と話してたとか言ってたわ
俺のじいちゃんは陸軍軍曹の教官だったらしい
三等兵から昇格して教官やってたから優秀だったのかも
来月100歳になるじい様はシベリア帰りだす。
極寒の地で壮絶でごわしたけど、ロシア人は優しかったそうだ。
これ出版してドラマ化しても
いけるんじゃないかと思うよ。マジで
名は知らずとも、
敬意をもって曽祖父に感謝致します、
ありがとうございました。
うちは、父方の祖父が海兵在学中に終戦、母方が近衛将校。
母方の祖父は、近衛の南方出兵に付いて行き、
最後は宮城事件の反乱部隊の中隊長だったみたい。
大尉昇進予定だったものの、自分の所属している二聯隊が反乱を起こしたため、
中尉据え置きを食らったと言っていた。
近歩二会の資料は割と残っていて、大切に保管中。
基本、非売品の書籍が多くて、割と貴重な気がするので。
近歩二会が解散する前に興味を持っていれば、
もっと色々と情報を得られたのになぁと、割と後悔している。
古い資料は、大切に保管しましょう。
できれば、スキャンしてデジタル化もしとくべきかも。
>>22
一三式艦上攻撃機の可能性がありそうです
陸軍でも輜重兵(兵站)は馬鹿にされてたんだよな。
ものすごく重要なのに。
面白かった!
当時の空気や人情が見れて良かったわ
出版に触れている人がいたけど、出版社の担当によっては資料無くされるからな~。
素人には難しいよ。
ドリコノかぁ
確か北杜夫のエッセイだかにもう一つ別の飲料と共に
書かれていたなぁ
ばあちゃんにレッドブル買ってってあげたら?
うちのばーちゃんは南京で看護してたって言ってたなぁ。終戦後なかなか帰れんかったらしい。あと終戦後に帰る時乗った列車は印象的だったて
これはまた興味深いスレだなぁ
キスカ撤収作戦は「太平洋奇跡の作戦 キスカ」って東宝映画にもなってるけど
本当に努力と偶然が重なって見事に作戦成功したという。
残された犬はアメリカ軍に無事発見されたらしい
兵から中尉になるってわりと凄いよな。
男が戦ってる間に女は優雅に生活してたんだよな
女って罪悪感ないの?チンポはめるだけで生き延びられるんだから低能の癖に良いご身分だよな
ちゃんとした記憶が残ってていいなぁ。
俺は口頭で聞いてたからうろ覚えだわ。
確か俺の爺さんと爺さんの兄弟は神風って名前の戦艦?に乗ってたらしい。
海無し県の栃木なのにお乗るハメになったとか苦笑いして話してた。
なんか北の方へ行ってアシカを見たり、間近で戦艦大和を見たとか言ってたなぁ。
確かインド洋?で敵に包囲されたけど、スコールのお陰で敵の目を掻い潜ってシンガポールまで逃げたって言ってた。
で、そこで終戦。
現地で中国人に罵られながらションベンかけられたり、
街で暮らせないから郊外で暮らしてたらマラリアに掛かったりもしたけど、
無事に帰国したって話。
もっとちゃんと聞いておけばよかった……。
素晴らしい。
おじいさんも素晴らしいが、>1の文章も素晴らしい。
読んでて情景が浮かんでくるよ。
これは歴史的資料として十分に役立つよ。
当時の日誌とかそういう類は俺が行ってた大学のゼミの教授が研究対象にしてた。
すげえ興味深いわ。
最初から最後までぜひとも読んでみたい。
もし大学とかに寄贈したら大喜びされるレベル。
キスカ島に残された犬3頭の小説、読んだことあったわ!
「ベルカ、吠えないのか?」てやつ。
なんかすげーな!人とか時代って繋がってんだな!!
ウチの伯父は二式大艇に乗っていて戦死したから、写真や遺品等は靖国神社に渡している。やっぱり散逸するのがこわいからね。職員の方がものすごく丁寧に扱ってくれて恐縮したよ。
1の曾祖父は戦死じゃないけど、生きた者こそ書ける資料としては、かなり貴重なものじゃないかな。
※24犬発見されたんだ。よかったねえ…>>1の曾祖父さんに聞かせてあげたかったね。
戦後生きて無事でよかったね
父方の祖父は駆逐艦の艦長だけど、戦後足の怪我が
悪化して父が幼少時になくなった。
その後父は苦労したとか言わないけど、生きていればなあと思う事があったと思う
で俺の祖父は逆の八路軍にいたんだけどね……単なる一般兵から気付けば大佐になってて最終的には中将の話もあったけど前線にいたいから蹴ったというね
おかげで朝鮮戦争は前線にいることができたけど昼は毎日空爆で実質夜にチョコマカなんかやるくらいしかできんかったそうな……まぁ戦争はいけないよ本当に……
ちなみに軽度のptsdみたいで深い眠りにつけない、小さい物音で起きる、朝六時ちょうどに起きるなどなど…まぁ生活に悪影響はないからよかったけど…それち最後火葬する時にも日本軍か国民党軍かアメリカ軍かわからんけど砲弾の破片が出てきたそうな…
これ、資料として残しておいてほしいものだ
話の内容が大変良かった
なぁオメエらの爺さん大佐だの艦長だの多すぎじゃねww
すごく貴重な話だった
大事に残してほしいな
なかなかの資料だね。
うちは、祖父の弟が南方かどこかで戦死している。
実家に、本人と靖国神社の写真とともに勲章が飾られている。
戦死の特進で少尉だから下士官でもないのかな?
沖縄戦の時、祖父は海軍に居たって聞いた。
もう数年前に亡くなってしまったから当時の事を聞けない。
戦争を知らない世代が増えてるから、こういう資料は貴重だよね。
有為転変だなー
※36
「うちは凄い名門」→詳しく聞いたらド平民 なんてのは今でもよくある話
長門かぁ~いいなぁ~
声に出して読みたい戦時日誌
うちの爺さんもキスカに行っていたわ。そのことについて何も自分には話さなかったけどシベリア犬は置いてきたといっていたな。
本文中の集合写真に載っているかドキドキしながら見たけどいないてことは陸軍と海軍では当然線引きしていたのかな。日誌の中の新年は雑煮を食べたとか、鮭とか昆布を食べたとか。当時の島の情景とか今更ながら知れたことはすごく
ためになったわ。
これはぜひとも全編出版するなりして欲しいなぁ。
よい内容だた
長門から司令部、キスカまで経験してるなんて
そこそこ名の知られた御方だったのでは?と思う
こういう記録があるのっていいなぁ
うちのじーさんはハワイ帰りだったような話を聴いたような気がするけど
なにぶん小学校低学年の頃聴いた話なんでまったく詳細を覚えていない。
覚えてるのは戦争で指2本無くしたって話だけだ
何処の誰かは存ぜぬが、礼を申すぞ、若いお人。久しぶりにええ話を聞かせてもろうた。ささくれだった心が潤うのを感じた。曾祖父はご立派な方やったことは間違いない。貴殿もきっと、曾祖父が誇りに思う曾孫に違いない。次に仏壇に向かう時、よろしく伝えてくだされ。
うちの叔父は重巡洋艦、熊野に乗ってて戦死してるな。
靖国で眠ってるわ、当時はそれが当り前だったから。
あ、ところで今の自動車メーカー、ダイハツってな、戦時中はもうあったんだ、大阪発動機というのが当時の名前で、軍艦のエンジン造ってたそうだよ。
そこそこ戦争系の資料を読んだことがある身だが、初見の内容が大量にある。
写真もたくさんあるみたいだし、これは本当に本にするなりなんなりまとめるべきだと思うなぁ。
どっかの出版社がこのスレに目をつけても連絡が取りようがないと言うのも2chの困ったところ。
うちの祖父もキスカ島にいました。部署は違うと思いますが、発電機の管理をしていたそうです。こんな偶然があるとは思いませんでした。
日本人なら誰もが先祖に第二次大戦で戦争体験しているか、外地で頑張った経験を持っている。これは誇りに思っていい。もし何も経験が無いというなら、その家は朝鮮系であるのは確実だ。
昭和天皇即位のときに長門乗ってたんならうちの曾祖父とも一緒だな。えらい精鋭だったんだな、
当時うちのは航海科やったらしい。
俺のじい様も海軍で少尉だったらしいが船とかは解らん。
確か佐世保のあたりにいたらしい。
戦争中は中国あたりで艦砲射撃をしたりして人が吹き飛ぶ様子は映画に出てくる通りだと
話していたらしいが戦争の話はあまりしたくないらしくて家族にはほとんど語らなかったとのこと。
それから開戦前にアメリカに行った経験があるらしくて、宣戦布告後に祖母にひとこと日本は負けると言ったらしい。
>「主計・看護が兵隊ならば蝶やトンボも鳥のうち」
補給を軽視してきっちりガダルカナルとインパールでしっぺ返しを食らうんだからな~
確かに予算も人員も限られているから優秀な人材はどうしても表の兵科に配置させないといけないし入隊者の希望も「目立つ・カッコイイ」兵科に集まるから「縁の下の力持ち」な補給などは不人気になりがちなんだが・・・
>>雑用だと武器はいじらないの?
>>銃だったり船についてる大砲?だったり
基本的に雑用を勘違いしている。 銃とか大砲の整備は砲術の人が担当する。
今の海上自衛隊の経歴に直すと・・・
・2等海士として入隊、経補要員となる。
・護衛艦で第4分隊補給科給養員として勤務。1等海士、海士長と昇任。
・第4術科学校海士給養過程に入校し給養員となる。
・終業後「マーク持ち」として護衛艦の補給科給養員として勤務。
・3等海曹に昇任。
・横須賀教育隊で経補要員の教官として勤務。
・自衛艦隊司令部で勤務。
・横須賀教育隊で経補要員の教官として勤務。
・海外派遣勤務。
・舞鶴地方総監部勤務。
・3等海尉に昇任。
・海外派遣勤務。
・舞鶴地方総監部勤務。
・2等海尉に昇任。
って感じか。
すごいすごいすごい面白かった!
映画化決定!!
ちなみにうちの祖父はニューギニアの生き残りです。
戦後5年は、日本に帰って来れませんでした・・・。
うちのじいちゃんは、鹿児島の出水市で特攻隊を送り出す将校でした。
父方は近衛兵でした。
俺の婆ちゃん小学生の時に対馬丸乗って疎開するときに乗った後に那覇から来た小学の教師に貧乏人にこんなに良い船乗せるなって文句言われて他の船に乗ったらしいんだが対馬丸は撃沈されて反戦アニメになってるよね、別の船乗ってなかったら俺産まれてねえや、、戦後産まれの俺達はもっと戦時中生き残ったじいちゃん婆ちゃんには感謝しないといけないね