続・古い時代の人形画像を色々と貼っていくスレ
1:1:2010/11/07(日) 22:42:37.37ID:geNv3Nv10
先日、古い時代の人形の画像スレを立てた者だけど
その際は、気力切れで半端なところで終わったので
今晩は、その続きという事で。
なお、前回採り上げた産地や、有名な産地でも
戦前より古い画像が手元にない産地については
遺憾ながら割愛せてもらうッス。ご了承あれ。
あと、張り子とか練物(おが屑と糊を混ぜて型抜きしたもの)まで
カバーするとなると、さすがに相当キツイので土人形オンリーで。
まぁ、需要無視の完全自己満足だけど、
少しでも興味持ってくれる人がいたら嬉しいかも…。
ご覧の通り、こういう感じの日本の郷土人形ッス(^^;
あと「古い」とは書いてるものの、実際のところ近世から
近代(昭和初期)までの範囲内に収まるものだけですので
その点については悪しからず…と言う事で。
秋田県 秋田市:八橋(やばせ)土人形/団扇持ち娘
高さ:12.0cm/昭和初期
江戸時代後期の寛政年間(1789~1800)から
文化年間(1804~1817)頃にかけて、
当時、北前舟によって秋田まで運ばれて来ていた
伏見人形の影響を受けて始められたと推定されています。
幕末頃には十数軒もの作者があったと伝えられるほどの盛況でしたが、
明治も半ば以降になり、衣装人形などの大衆化が進むようになると、
下りものの高級人形に押され次第に衰微していき、
製作者も、昭和のはじめには高松家、遠藤家、道川家の3軒だけとなり、
平成元年に高松茂子さんが亡くなられた後は、現在は道川トモさん
ただ一人が、わずかに製作をされるばかりとなってしまいました。
明治中期頃までは古い伏見人形と同様の、朱や緑青を基調とした彩色でしたが
明治33年(1900年)の「有毒色素取締法」の施行後になると、科学顔料や
ニスを使用するようになり、厚ぼったく、暗めの色合いへと変わりました。
からくり人形となると、どちらかというと
こういった郷土人形の範疇から外れて「上手もの」の
方に行ってしまうもんで…(;´Д`)
そういや、最近は↓みたいな江戸時代の人形を
完全復刻してるところもあるみたいですな。
からくりや
http://karakuriya.com/index.htm
歴史的に非常に意義のあるスレだな
秋田県 横手市:中山土人形/子守り
高さ:15.7cm/昭和初期
江戸時代末期、肥前(現在の佐賀県)鍋島藩の陶工であった
野田宇吉が盛岡の南部藩へと招聘されましたが、
天保の大飢饉時には南部を出て、流浪の末、秋田の湯沢へと
たどり着いた後、再び陶業をはじめました。
その後、現在の横手市の中山に移り住んだ宇吉は結婚し、
長子の金太郎を儲けましたが、その金太郎と結婚した樋渡ヨシが、
陶業の傍ら宇吉から粘土細工を習い、当時地元で作られていた
押絵人形や姉様人形から題材の着想を得て、明治7年(1874年)より
製作を始めたとされています。
また、昭和3年には、ヨシの孫であり、3代目を継いだ義一が仙台の堤へと
陶業の研修を受けに行き、帰郷後に新たに多くの型を起こし、
4代目の昭太氏(平成11年没)を経て、現在は5代目の徹 氏、並びに
昭太氏の兄弟である浩三氏により、製作が続けられています。
山形県 米沢市:成島土人形/犬乗り童子
高さ:7.9cm/明治末~大正期
米沢郊外の成島集落において、明治の末期から大正時代にかけて、
農業の片手間に、井上 弘章によって作られていた土人形です。
近郊の相良人形に粘土を被せて型取りをしたもので、
顔の磨き出しや頭部の水引模様などは、本家を良く
模してしていますが、全体的に彩色は荒く、またニスっぽい
仕上がりのため、同時期の相良人形とは容易に区別する事が出来ます。
山形県 鶴岡市:鶴岡土人形/山姥と金太郎
高さ:19.8cm/明治中期
江戸時代末期の天保年間(1830~43)に、
庄内藩士の尾形 喜惣治が製作を始めたとされていますが、
これに関しては、当時の北前舟の航路の発展に伴って、
下りものとして庄内地方へと移入された伏見人形に
刺激されたものと考えられます。
その後、尾形一族が代々製作を続け、昭和33年に
5代目の喜一郎氏が亡くなり一旦は廃絶しましたが、
近年になり、ご子息の尾形 弘一 氏が6代目として
製作を再開され、再び復活するに至りました。
特徴としては、伏見人形の影響もあるためか、
当時、庄内地方に移入された伏見人形と同様の
丹・黄土・緑青などの絵の具を使用しており、
人形の形態についても伏見人形と同じものが
多く見られますが、原型を複製するための手段としての
人形に粘土を被せての型取りにありがちな、
細部のディティールが損なわれてしまうものとは違い、
造形が非常にしっかりとしているため、これについては
型を専門に売る伏見の業者から購入した可能性も考えられます。
山形県 酒田市:鵜渡川原土人形/俵乗り大黒
10.6cm/江戸末期~明治初期
江戸時代末期ごろ、鋳物業を営んでいた鍋屋 助左衛門が、
旧・飽海郡の鵜渡川原(うどがわら)村へと移住後に
製作を始めたと考えられており、残されている人形の木型に
文政4年(1821年)の墨書があります。
※鵜渡川原村は1929年に酒田町(市制施行により1933年に酒田市に)に
編入される前の地名です。
その後、明治になり長男の大石 助蔵が本家を継ぎ、
次男の孝之助、三男の周蔵(後に木山家の養子)も含め、
それぞれが土人形作りを受け継ぎました。
なお、鵜渡川原人形は、江戸末期~明治20年頃に
かけての期間に製作されたものを差し、小さい木型を使って型抜きし、
焼成しないで乾燥させた形態と、植物性顔料による彩色に特徴がありますが
明治20年代あたりになると、制作方法こそは変わりませんが、
塗料が鉱物性のものへと切り替わります。
山形県 酒田市:古酒田土人形/篭持ち娘
16.0cm/明治末期
前述の鵜渡川原人形は、明治中期を過ぎた頃から、
当時、北前舟を経由して庄内地方に移入されていた京都の伏見人形や、
島根の長浜人形、福岡の博多人形などから型取りした抜き型を使用した上で、
焼成をして彩色を施した大型の人形が登場するようになり、
この時期の人形を古酒田人形と呼びます。
なお、従来からの木型を使った人形は、この頃になると
ほとんど見られなくなり、また、彩色に関しても更に変化が進み、
従来の丹がオレンジのような朱色へと変わり、明るい緑色や紫色が
使用されはじめ、更に大正時代に入ると金色が多用されるように
なっていきますが、これは、型抜きのために取り寄せた、
岐阜県の瑞浪土人形を忠実に模倣した結果であるとされています。
なお、その後の酒田における人形作りの流れですが、
本家の助蔵は、木原家に入っていた周蔵の長男である周助を養子に迎えましたが、
この頃には、本業の鋳物や鉄工所の仕事が中心となったため、人形作りは縮小されました。
その後、人形作りは周助の長男である定佑(本家4代目)、やゑ夫妻が受け継ぎましたが、
定佑氏は平成11年に亡くなり、現在は、やゑさんが「鵜渡川原人形保存会」を興し、
人形の製作と後進の方々の指導に当たっています。
次男の孝之助は明治25年頃に分家独立し、
他産地の人形から抜き形を作り積極的に製作をしました。
そして、長男の重助(分家3代目)と妻の梅代を経て長女である
文子さん(同4代目)へと引き継がれましたが、
文子さんが平成4年に死去したため、大石分家の人形は廃絶しました。
最後に、木山家に入った三男の周蔵は風俗ものを、
周蔵の次男の金之助は昔話ものを得意として人形の製作を行いましたが、
金之助の死去により木山家での人形作りも終わりを告げました。
なお、分家の重助と結婚した前出の梅代は周蔵の三女にあたります。
山形県の東部にあたる村山地方では、当初は仙台から堤人形が
行商人等の手により移入されていましたが、天保の大飢饉によって、
堤では職人の餓死や、販売能力に対して壊滅的な打撃を受けた事もあり、
その結果、堤人形の流入が止まったために、堤へ修行に行って帰郷した職人や
地元で陶業に従事していた職人が、彩色や文様なども含めての堤人形の制作方法を踏襲した、
地元産の土人形を製作するようになりましたが、現在では、これを一括して【堤系人形】として
分類しています。
なお、全体的な特徴としては、堤人形に粘土を被せて直接に型を取る、
いわゆる孫型を使っての製造になるため、焼成の際に焼き詰まりが起こり、
本家に比べて一回り小さく、ディティールが甘い作品になる事が挙げられます。
以下に2箇所の産地の堤系の人形を挙げます。
山形県 東根市:花山人形/傘持ち娘
14.9cm/江戸末期~明治初期
江戸時代の末期の天保頃(1830~43)に、
肥前は有田の出身の陶画工である卯平が、
土地の窯元の土赤 与右衛門に雇われた後、
大庄屋の小山田 理兵衛宅の物置を借りて
製作を始めたとされる人形で、堤系の人形の中では、
最も古い部類に属する人形です。
なお、現存する人形の中に、天保12年(1841年)の
墨書のある人形が確認されているため、
恐らくその時点では既に製作が開始されていたと考えられます。
堤系人形の中では最も本家の作風に近いタイプで、
人形の制作方法も踏襲した上で、本家特有の花崩し模様をベースに、
様々な種類の描彩を駆使しています。
山形県 東根市:猪野沢土人形/福袋持ち大黒
10.0cm/明治前期
仙台に通じる関山街道沿いの猪野沢集落で、
江戸末期から明治時代にかけて作られた土人形です。
近在の谷地や東郷村、楯岡などの雛市で売られましたが、
明治末頃までに廃絶しました。
なお、現在では 前述の花山人形を製作していた卯平が明治14年に猪野沢を去り、
その後、土地の陶工であった土赤 五郎吉が製作を開始したという事が判明しています。
堤系の人形の中では、非常に肉厚で重たい作りである事と、同じ種類の人形であっても、
まったく彩色や描彩が統一されていないなど、おおらかな作りが特徴となっています。
山形県 米沢市:下小菅土人形/太鼓打ち童子
9.4cm/明治末~大正初期
米沢の北の下小菅集落で、明治末から大正初期にかけて
小山田 亀蔵によって作られていた土人形です。
全体的に小型の物が多く、菫黒色(紫がかった黒色)を
多用した彩色が最大の特徴です。
また、同時期に製作されていた成島土人形に比べると、
下小菅ならではの独創的な型が多く見られます。
…さーて、これで東北のは大体紹介したんで、
次は関東に移りますかね。
東京都 台東区:今戸人形/子守狐
9.2cm/昭和初期
今戸人形は江戸後期より明治にかけて、浅草の今戸で作られていた人形です。
大正時代に一時期 尾張屋春吉により復活され、また現在も復活品は作られています。
しかしながら、非常に有名な人形でありながら関東大震災および戦災の影響で
江戸期の伝世品はきわめて少なく、江戸時代の屋敷跡の発掘現場から色落ちした埋
蔵物として出土することはあっても、完品はほとんど見ることがありません。
なお、現在は今戸で製作を続けている白井家とは別に、
人形研究家の吉田義和氏が古い時代の今戸人形を復元しようと
日々奮闘されておられます。(下記リンク参考)
東京の土人形 今戸焼?!今戸人形? いまどき人形
http://www5.ocn.ne.jp/~imadoki2/index.html
ぶっちゃけ、知ってても普段の生活になんら影響の無い
単なる無駄知識ですので、あまり深く考えないで結構ですw
まぁ「俺の地元に こんなものがあったのか!」みたいなのを
知ってもらえたら嬉しいかも?みたいな感じで。ハイ。
千葉県 長南町:芝原土人形/縞小僧
8.4cm/大正時代
明治初期、田中 金造により創始されました。
3代目の謙次 氏が昭和46年に亡くなり一旦廃絶しましたが、
1982年に人形研究家の千葉 惣次 氏が4代目として製作をはじめ復活しました。
全体的に小型のものが多く、中でも女生や軍人ものなどの明治風俗を写した人形に特色があります。
なお、芝原土人形の特徴としては、眼の周りに牡丹色の隈取り(ボカシ)を施すことが挙げられます。
また、東京の今戸人形からの影響が強かったためか、今戸人形から型取りしたものなどをはじめとして、
同時期の人形と良く似た群青色を主とした彩色をしていますが、土の質や使用している絵の具の関係もあり
かなりローカル色の強い作風になっています。
【参考リンク】
http://www.chiba-cci.or.jp/c-soft/public_html/dento/d_data/d_08_088.htm
http://www.cl-shop.com/citylife/cl/back/kiji/kuei/7.htm
さて、関東は元々産地が少ないのでお次は信越方面に飛びますわ。
中野土人形/二枚扇
17.3cm/明治末期~大正頃
江戸時代後期頃の創始と推定され、
現在は5代目の奈良久男氏が製作をされています。
京都の伏見人形からの抜き型による物が多いですが、
河豚の上に大黒様が乗った「河豚乗り大黒」などの独自型も見られます。
余談ながら、現在も開かれている雛市は、郷土人形の世界における
ワンフェスとでも言うべき人気振りで、この中野土人形を入手するため
全国から人形ファンが集まり、整理券を手に入れなければならぬほどの
盛況振りとの事。(自分は遠地在住なので、参加自体は無理ですが…)
【参考リンク】
中野ひな市公式ホームページ
http://www.hinaichi.com/index2.html
北信タイムス過去のニュース
http://times-press.sakura.ne.jp/pastnews2006-4-7.html
新潟県 岩船郡:村上(大浜)土人形/桃太郎
18.4cm/明治後期~大正期
村上地方で製作されていたことから「村上土人形」と呼ばれていますが、
それとは別に、作者の名前を取って「大浜土人形」とも言います。
江戸時代末期、現在の愛知県の大浜から移住した瓦職人の源七が
村上藩の御用を務めるうち、その後を追って村上に来た甥の善四郎が、
源七の後を継いだ後に、瓦焼きのかたわら始めたとされています。
その後、子息の善吉から末弟の末吉へと受け継がれ、
現在は末吉の子息の平吉の奥様である大浜カウさんが
細々と人形作りを続けておられますが、ご高齢のため、
どうやら中絶状態という話だそうです。
本家である大浜の人形そのものとの共通する型が
見受けられないようなので関連性は薄いと考えられますが、
八幡土人形などの佐渡を除く新潟県内の土人形の中においては、
中型~大型のものが比較的多い事と、中間色を多用した、
明度の高い彩色が特徴です。
新潟県 三条市:三条土人形/子供大黒
10.2cm/明治後期~大正初期
明治初期に創始されたと推定されています。
小林三六をはじめとして数名の作者がいましたが、
大正時代に入り、廃絶に至りました。
なお、廃絶に至った理由のひとつに、作者達が居住していた地域に
鉄道(現在のJR弥彦線)が開通する事になり、線路の建設のため
立ち退きを余儀なくされた事が挙げられます。
全体的に小物の人形が多く、黒を基調としつつも、
その上に施された赤、黄、緑、ピンクといったカラフルな彩色と、
糸の様に細い一筆書きの眼が特徴です。
今現在の感覚で見た場合、どうみたって萌える要素は皆無ですが、
当時の感覚…というか感性というか人間性においては、こういった
表情や姿態は、当時なりの萌えを表現しようとしたものだったのでは
無かろうかと…。いやまぁ、もちろん そんな訳ありえないスけどね!
新潟県 栃尾市:栃尾土人形/おぼこ
7.4cm/明治初期~中期
長い間、産地不詳の人形とされてきましたが、
近年になり、日本郷土人形研究会の調査により、
現在の栃尾市の栃堀集落において、主に当時の
北前舟ルートによってもたらされた伏見人形から
取った抜き型を使用して、江戸末期から明治中期頃に
かけて作られていたらしいという事が判明しました。
特徴としては、確認されている人形の内、大半のものが
小型である事と、人形の前面だけを型抜きした上で背面は
著しく扁平、もしくは自立できる程度の盛り上がりを付けている、
低い温度による焼成から来る脆さをカバーするためか人形の首の部分に
竹串を差し込んで成形する、目の上の部分に薄い桃色で色差しをする、
などが挙げられます。
余談ながら、郷土人形の世界においては今現在でも珍品扱いなので、
ヤフオクとかで出てきた場合、数万円とかザラにします…いやマジで。
新潟県 佐渡市:八幡(やはた)土人形/おぼこ
20.2cm/明治中期
江戸時代の後期、村岡多平(1799~1882)により、
京都の伏見人形に倣って製作されたのが始まりです。
昭和初期、6代目の本間辰次郎の代になり、道路拡張により
人形を焼く窯を取り壊したことに伴い、制作が中止され、廃絶に至りました。
全体的な傾向としては、当時 北前舟で運ばれた伏見人形や
長浜人形(島根県)からの影響が強く見受けられ
それらの人形から直接に型取りをしたものがあります。
また、八幡人形独特のものとしては「ウチコミ」と呼ばれる、
菓子型職人の手によると思われる片面のみの、もしくは小さい
土型・木型を使用して抜いた、扁平な作りの人形が挙げられますが、
形状から来る制約上、大型の物では立ちにくいため、ほとんどの物が
10センチ前後の小型の物です。
富山県 富山市:富山土人形/神功皇后
18.8cm/明治後期~大正期
江戸末期の嘉永2年(1849年)頃、当時の富山藩の
御用窯である「丸山焼」の陶工として働いていた広瀬秀信が、
藩主の前田利保の命により、城内の千歳御殿において楽焼と共に
土人形を製作した事が始まりとされています。
明治に入ると、秀信の長男である安次郎が中心となり、
旧士族十数名を人形作りの同業者として育成し、
20年代から30年代にかけては、安次郎をはじめ、
これらの士族上がりの職人によって大量に生産され、
日清・日露戦争の戦勝による好景気に支えられた事もあり、
活況を呈しました。
しかし、大正時代に入り、県下全域にわたる不景気や、
ブリキ・セルロイドといった素材を使用した
新式玩具に押されて売れ行きは低下し、また、
不安定な職業に対しての不満を持った後継者達が
人形作りを継ぐ事を敬遠するようになり、
生産者の数が徐々に減っていった事に加え、
戦災により残っていた殆どの製作者宅が被災したため、
土人形作りは、この時点で壊滅的な打撃を受けました。
そして、戦後は渡辺 信秀 氏ただ一人が製作を続けられていましたが、
高齢のため平成9年に廃業の後、15年に死去され、後継者が居なかったため、
ここに富山土人形は廃絶しました。
…さて…麻呂さん、出番ですよ!(何
石川県 金沢市:金沢土人形/衛士馬曳き
6.1cm/大正~昭和初期
幕末から昭和初期にかけて、加賀百万石の
城下町である金沢で製作された土人形です。
10センチ未満の小型のものが主で、
あか抜けした上品な作風が特徴です。
また、特殊な用途を持った人形として、
裃・振袖姿に作られた男女一対の人形などが挙げられますが、
かつては、これを疱瘡除けとして病児の枕元に置いて祀ったのちに
桟俵(さんだわら)に乗せて川に流したり、便所を新築した際に、
「厠の神」として、その底に埋めるといった風習がありました。
福井県 越前市:武生土人形/舞娘
31.7cm/昭和初期
三国土人形(坂井市)を創始した新保屋 久右衛門の次男である
新保 佐治平が、生業であった鋳物の仕事がし辛い、
冬季の副業として明治26年(1893年)に始めました。
その後、佐治平が大正の初年に死去すると、人形の土型は
大正9年には佐治平の次男である久治郎から平野 秀太郎に
譲渡され昭和初期まで製作が続けられましたが、それもいつしか
中止となり、廃絶に至りました。
特徴としては、元来が三国土人形から分かれたため、
三国土人形と良く似た点が多い事と、その三国土人形が
伏見人形に学んで作られた事から、伏見人形に類似した型が
多い事が挙げられます。
また、天神信仰が盛んな土地柄だったために、
多種類の天神人形が作られましたが、なかでも、
仏師などが製作した木型を原型とした、
彫りの深い独特の風格を持った大型の天神人形が有名です。
さて、今度は土人形の一代産地である中京地域に移ります。
愛知県 名古屋市:名古屋土人形/牛若丸
30.6cm/明治末~大正期/作:野田 末成
創始の時期は文化・文政期(1804~1830)あるいは、
それ以前ではないかと言う説が提唱されています。
明治30年代を最盛期として数人の作者がおり、
それぞれに特色のある人形を製作していましたが、
個々の作者については、名古屋が第二次大戦の際の空襲により
壊滅的な打撃を受けたこともあり、資料の発掘が極めて難しい
現在となっては、その詳細は不明となっています。
なお、野田 末成の子息で最後の製作者の野田末吉氏が
平成元年に他界し、名古屋土人形は廃絶しました。
【参考リンク】
郷土玩具 名古屋の土人形
http://kyoudogangu.xii.jp/nagoyatutiningyo.htm
いやいや、たとえ最初は興味本位でも、このスレを見ていただいて
そこから、ご自身のお住まいの地域にご興味を持っていただければ、
自分としては十分嬉しいッスよ?
愛知に住んでるんでちょうどいいかも
民俗学とかやってる人?
いやー、民俗学に関しては、あくまでも嗜むレベルでして
本格的に研究やら何やらやってるという訳ではないです。
あと、案外知られていない事ではありますが、
愛知県は、明治時代中期から昭和初期まで、
以下にあげる産地も含めて、県内で十週箇所もの
土人形の産地があった、まさに土人形王国でした。
なるほど
常滑とか尾西とか焼き物の産地があるし土の質がよかったのかな?
それとも愛知民は人形が好きだったのかな、わかんないけれど
最後まで見てるから無理せずガンガレ
猿投窯のように古代から窯業が盛んだった事を考えると
製陶に使う事のできる質の土が方々で産出するというのは、
確かに大きな要因だったでしょうね。
まぁ>>39でも述べていますが、愛知県内でも三河一帯は
農村歌舞伎が盛んな地域だったそうで、そういった地域の
節句の主役として、芝居物の人形が熱狂的に迎え入れられた
というのが一番の理由だったようですねー。
愛知県 丹羽郡:大口土人形/鯛乗り恵比須
17.8cm/明治中期
大口町において、大塚吉助、増太郎、真一の
三代にわたって製作された人形です。(廃絶)
正確な創始の時期等は不明ですが、初代:吉助の生年が
天保5年(1834年)であることと、同じく初代の作品が、
彩色において犬山土人形のニス塗りでない明治中期以前ものと
良く似ているため、江戸末期から明治初期にかけて犬山土人形の
影響を受けて創始されたのではないかと推定されています。
愛知県 丹羽郡:扶桑土人形/神楽
24.5cm/明治後期~大正期
三河の大浜で人形作りの修行をした近藤 茂三郎が、
明治30年頃から地元の扶桑町で製作を始めました。
茂三郎の没後は息子である学寿が後を継ぎましたが、
昭和2~3年頃に人形作りを廃業したため廃絶しました。
犬山土人形(犬山市)をはじめとする淡い色彩が主の
近隣の人形の中にあって、三河タイプの濃厚な彩色が目を引きます。
また、人形の型については、修行先の大浜のものを
修正した上で使用したものが多く見られるようです。
(↓は上の人形の元型になった大浜土人形の神楽)
ただし、現在確認されている人形の中には、
背面に明治33年(1900年)の「有毒色素取締法」に基づく
【犬山焼雛組合:着色検査之證】と印刷されているラベルが
貼られているものがあり、この事により、当時は扶桑土人形も、
犬山土人形のグループとして認識・販売されていた事が分かります。
愛知県 一宮市:起(おこし)土人形/虎乗り清正
16.8cm/明治末期頃
初代の中島佐右衛門が、天保年間(1830~44年)に
名古屋の枇杷島において、また一説には、明治初年に同じく
名古屋の御器所七本松で製作技術を習得した後、
旧・中島郡の起(おこし)町において製作を始めたと
伝えられています。
金や銀をふんだんに使い、下地や肌の部分に使用する
胡粉(ごふん)には雲母(うんも)を使った派手な色彩と、
製作された当時における運送上の便宜を図るために
考えられたとされる、人形の前後の厚みが割合に扁平で、
レリーフ状に作られたものが多い事が挙げられます。
また、犬山や棚尾の影響を受けたためと言われていますが、
歌舞伎の外題物が多い事も特徴です。
なお、平成16年に、5代目であった一夫氏が他界された後、
現在は奥様である一子(かずこ)さんが製作を続けられています。
愛知県 碧南市:棚尾土人形/太閤秀吉
34.6cm/昭和初期/作:鈴木 初太郎
地方歌舞伎の俳優として三河地方を巡業していた
棚尾在住の石川 久八(嘉永3年:1850年生)が、
雛人形などが主体であった従来の節句向けの人形に、
歌舞伎物の人形を加える事を思い立ち、役者としての自身の知識を
ふんだんに取り入れた歌舞伎人形を創始したのが始まりとされています。
元来、三州瓦の生産地であったこの地域には、
鬼瓦をはじめとして屋根の上に装飾として載せる瓦人形を作る、
鬼板師(おにいたし)と呼ばれる職人が多く、それらの職人の手に
よって多くの人形の原型が生み出され、また、農村歌舞伎の盛んであった
三河地方の芝居に対する人気を背景として、全国でも類を見ないほどの、
大型で豪華絢爛な節句人形が次々と生み出されていきました。
その後、棚尾では鈴木市太郎をはじめ、十数名もの作者が
人形を製作していましたが、昭和36年、最後の作者であった
鈴木 初太郎(市太郎子息)の死去により、棚尾の土人形は廃絶しました。
愛知県 碧南市:旭(あさひ)土人形/帯持ち娘
27.7cm/大正~昭和初期/作:高山 市太郎
現在は合併により碧南市になった旧・旭村で、
明治24年(1891年)、豊橋で土人形を製作していた
杉浦幸次郎に師事していた高山 市太郎が、独立後に旭村に
窯を築き製作を始めたのが始まりです。
戦後は転業により製作を中断されていた八郎氏(市太郎の四男)が、
近年になり製作を再開され、新作の製作も含め、大変なご高齢にも
かかわらず、精力的な活動をされておられます。
同じ三河の土人形の中では、棚尾の土人形に比べて、
赤や緑の色調が鮮やかで明るい事が特徴です。
なお、上記の杉浦家以外にも弟子である高橋 徳太郎や、
徳太郎に師事した杉浦 惣三郎や岩間 房太郎がおり、
中には、居住地は棚尾でありながら旭系統の人形を作った
小沢 銀二郎や小笠原 秀雄といった作者もいました。
愛知県 西尾市:西尾土人形/牛若丸
20.8cm/明治後期~末期
芝居に使うカツラの製作をする「鬘師」であった
鈴木三四郎が、明治23年(1890年)に、
分家をして西尾市に移住後に作り始めました。
人形の特徴ですが、製作を始めた当初は淡彩の作品だったものの、
次第に渋く濃い色彩となり、晩年には光沢の強い、リアルタイプの人形へと変化しました。
また、三四郎の弟子には、修行を終えた後に、新川土人形(碧南市)を
製作した亀島 初太郎と、同じく、三四郎の元で修業した後に、矢作土人形(旧・矢作町)の
作者となった都築 弥太郎がおり、そして初太郎の元で修業した後、独立して三四郎の隣家で
土人形を製作した、孫弟子にあたる石川 譲松がいます。
愛知県 豊橋市:豊橋土人形/舞娘
26.4cm/明治後期/作:吉田 孫吉
旅役者として流転の生活を送っていた杉浦 幸次郎が、
老境に入り安住の地を求めた後、明治20年(1887年)ごろ、
豊橋町(当時)に窯を築き、かつて叔父(※)の下で覚えた
土人形の技術を生かして製作を始めた事が豊橋土人形の創始とされています。
※幸次郎は、乙川土人形(半田市)の初代である杉浦伊左ヱ門、
もしくは2代目の佐与八の甥とされています。
明治31年(1898年)に幸次郎が亡くなると、
弟子であった吉田 孫吉が2代目として後を継ぎ、
意欲的に多くの新作を発表したため、豊橋土人形の名声は高まり、
評判を博しました。
しかし、孫吉には男子がなかったため、婿養子の作平を迎え
3代目としましたが、衣装雛の流行による土人形の売れ行き
不振などの問題があり、昭和10年頃には廃業しました。
岐阜県 瑞浪市:市原(瑞浪)土人形/鬼若丸(弁慶の幼名)
26.5cm/大正時代
かつての地名が土岐郡 土岐村 市原であったので
市原土人形と呼びますが、現在は瑞浪市へと変わったので、
別に瑞浪土人形とも呼びます。
明治20年(1887年)頃に、当地で瓦職人をしていた
杉浦 伊助が最も早く製作を始め、それに続いて犬山から
土人形を仕入れて当地で販売していた伊藤 只吉が、
伊助の開業に刺激され、明治28年(1895年)、
犬山から土人形職人を招き、その娘の てる に製法を学ばせました。
その後、市原では土人形作りが盛んになり、
最盛期には村内の戸数70の内、50戸あまりまでが
土人形の製作に関係した仕事に就いていましたが、
第2次大戦を境にほとんどの作者が廃業し、
当代においては後藤 久美 氏が伝承されていましたが、
近年になり製作を中止され、装飾陶器の絵付けの副業に
製作していた高木 敏夫氏が、ただ一人、現在専業として
人形を製作されています。
岐阜県 可児市:広見土人形/政岡と鶴喜代(歌舞伎:伽羅先代萩より)
24.2cm/大正末期~昭和初期
明治末期ごろより、犬山土人形の技術を学んだとされる
高田 伊兵衛によって作られていた土人形です。
後を継いだ息子の覚太郎と二代にわたって製作されましたが、
覚太郎の死去により廃絶しました。
なお、伊兵衛の時は二枚型を使った手押しによる製法でしたが、
覚太郎の代になってからは、石膏型を使った流し込みによる方法へと
切り替わりました。(掲載の人形は手押しによる伊兵衛の作品です。)
ついでながら、岐阜県も愛知県と並ぶ一大土人形産地で、
既に上に挙げた産地以外にも、中津川や多治見、恵那、高山といった
産地で人形が作られていたけど、これらの産地以外にも、人形自体は
存在するものの、産地が不詳のものも多くあったりする訳で。
で、↓の人形も産地不詳ながら、自分がお気に入りなので
挙げてみる事にしたw
美濃系土人形:楠 胡摩姫
28.5cm/大正~昭和初期か
さて、これで全体の8割は出したので、残るは西日本だ!
大阪府 大阪市:住吉土人形/裸雛
男雛5.1cm/昭和初期
江戸中期の明和年間(1764~71)に、北尾安兵衛が
京都の伏見人形の製作技術を身に付けて住吉の地に住み着き、
新たに創始したのが始まりとされています。
全体的に5センチ内外の小型の人形が中心で、
伏見系以外の人形の他に、種貸しさん、おもと人形、睦み犬、
初辰猫、喜々猿、千匹猿などといった独自の型に特徴があります。
後に生産地は堺市に移り、現在は伏見で生産されているようです。
兵庫県 養父郡:葛畑土人形/舞娘
29.5cm/大正期
江戸末期、前田 友助が、京都伏見で見た土人形の製法を元に、
買い求めた人形を参考にして、本職の瓦焼の冬季の副業として作り始めました。
明治の中期頃に良質の土を求めて、当初人形を製作していた
八木川沿いの河原場から、大野峠のふもとへと移住し、
第2次大戦を挟んで、戦後も製作が続けられましたが
4代目の前田 俊夫 氏が昭和56年に亡くなり廃絶しました。
また、俊夫 氏の代になってからは、従来の伝統的な人形に加えて、
農村の風俗などをモチーフとして、新しく型を起こした細やかな
描彩の現代的な土人形も製作されました。
鳥取県 八頭町:堀越土人形/舞娘
39.0cm/明治末期頃
明治中期から昭和10年頃にかけて、節句用の人形として
木曽金次郎が本業の瓦焼きのかたわらに製作していました。
なお、兵庫県の葛畑土人形の3代目の作者であった前田太蔵が、
若い一時期に、金次郎の下で瓦焼きや人形の製作について修行を
していたこともあり、顔の表情の雰囲気などよく似た作風をして
いますが、同じ時期の葛畑に比べると、粗野でひなびた雰囲気が
特徴となっています。
…うう…アカン…さすがに限界だ…
とりあえず朝まで仮眠して、
残り数枚は、それから貼ろう…(;´Д`)
前回寝落ちしてしまったが、ガンバレガンバレ!
実質あと少しなので、これならイケそうです(^^;
只今起床しますた!
…うーん、まぁ、こういった素朴な感じの郷土人形でもって、
そういう気味の悪い雰囲気の人形ってのは、そうそう無いですが
こういう「やりすぎで凄い事になってるし」というのなら、無くも無い…かも。
「伏見人形」の招き猫
http://www.nhk.or.jp/creative/material/36/D0002022116_00000.html
島根県 出雲市:今市土人形/手提げ持ち娘
27.8cm/明治末期頃/作:高橋源蔵(5代目)
江戸時代の後期頃、高木屋(高橋)茂三郎(1773~1834)が、
京都で伏見人形の製法を学び、帰郷した後に製作を開始したのが始まりと
されており、現在の当主である高橋 孝一 氏で6代目を数えていましたが、
惜しくも、つい先頃お亡くなりになり、廃絶に至りました。
天神様をはじめとして全体的に大型の人形が多く、
古博多人形などから型取りした作品なども見受けられます。
なお、この高橋家は昭和37年の年賀切手のモデルになった
張子の虎の製作もしていましたが、同じくこれも廃絶の運命を
辿る事になってしまいましたのは、返す返すも残念な事です。
香川県 高松市:高松土人形/嫁入り人形
鯛持ち恵比須13cm/大正~昭和初期
高松地方では、大正時代の頃まで、花嫁が近所の子供達に
土製の人形を手土産として持参する風習があり、婚礼祝いの翌朝、
人形目当てに押しかけてくる子供達に、白紙に包んで与えました。
土とおが屑を半々に練り混ぜ、型抜きした後に焼かずに乾燥させ、
彩色したもので、大きさは10~15センチのものが中心でした。
「めでたい」や「いぬまい(帰らない)」といった語呂に合わせて
鯛や犬を扱った物が多く、犬(狆)が鯛を抱く「鯛狆」などといった
ユーモラスなものが見受けられました。
当初は盛んに作られていた、これらの嫁入り人形ですが、次第に
瀬戸物やセルロイド製の人形にその座を奪われ、戦前には廃絶しました。
愛媛県 松山市:松山土人形/天神
24.8cm/明治後期~大正期
明治20年代より、両村光真が、松山の姫達磨の創始者でもある、
両親の庫造・クマ夫妻の協力のもと、叔父の貞助と共に製作を開始し、
昭和初期まで製作を続けましたが、光真の死去により廃絶しました。
その後、戦後になり光真の子息である巧 氏が、復活品として
小型化したものを製作しましたが、昭和53年に亡くなられたため、
再び廃絶となりました。
美しく磨きだしを施した差し込み式の頭部と、
平たく後ろ上がりに造形された両袖、
そして、袴の市松模様が特徴となっています。
また、県内の野田土人形の天神と良く似た形態、
色彩をしていますが、焼成してある野田の人形とは違い、
おが屑と土を混ぜた素材を乾燥させた、いわゆる「泥人形」の一種です。
さて、残るは九州の土人形ですが、お腹すいたので近所のコンビニまで
ちょっくら朝ご飯をば買いに行ってきます。(;´Д`)
さてと、食べ物も買ってきたので、
朝飯食いつつ九州編に取り掛かりますかね。
福岡県 福津市:津屋崎土人形/太閤
51.0cm/昭和初期
津屋崎で土人形が作られるようになたのは、初代が卯吉(文政12年没)か、
その子の半兵衛(明治11年没)かは、はっきりと確かめられる資料がありません。
しかし、津屋崎の在自(あらじ)に土器に最適な土があり、当初はその土で壷や甕を作っていました。
江戸末期か明治初期に、博多人形に習って、土器の製作のかたわら土人形を作ったのが始まりでした。
半兵衛の子の半四郎(明治29年没)の時代に、原田家は分家して原田三家となりました。
津屋崎の人形は特に大型のものに特色があり、大は高さが1メートルに及ぶものもあり
人形の種類は数百種にも上ります。また、小型の人形では土笛や土鈴など様々な種類を
製作しており、全国各地の神社仏閣、観光地へ納めているとの事です。
原田人形店HP
http://fukutsukankou.com/harada/tuyazakitenzikan.html
福岡県 筑後市:赤坂土人形/鯉抱き金太郎
26.0cm/昭和初期
江戸時代、有馬藩の御用窯として知られた赤坂焼の職人たちの
余技として土人形の製作が始まったと伝えられており、現在は、
野口家の5代目、野口紘一さんが ただひとり伝統を守っています。
粗い土を型で抜き、型からはみ出したバリもそのままにして焼成し、
胡粉を掛けた上から、食用色素でごくごく簡単に色付けした人形は
ただただ素朴きわまる、の一語に尽きます。
全体に小型の人形や土笛が多く、狐義太夫や虚無僧など
他では見られない独自の型に特色があります。
【参考リンク】
|ブルータス-BRUTUS|みやげもん|054 赤坂人形/福岡
http://magazineworld.jp/brutus/miyagemon/54/
佐賀県 武雄市:弓野土人形/鶏乗り子供(貯金玉)
10.6cm/昭和初期/作:古瀬 与三郎 家
博多土人形の職人であった原田 亀次郎が、九州各地で修行の後、
明治15年(1882年)に弓野の地に移り住み、
造り酒屋を営む奥川 権左衛門の家で新たに土人形を
作り始めたのがはじまりとされています。
その後、明治21年(1888年)に、土地の旅籠屋の主人であった
江口 友三郎に人形作りの腕を見込まれ、婿養子として江口家に入った後に、
土人形を商う「江口人形店」を開業しました。
その後は次第に販路を広げ、明治時代後期から大正・昭和を通じて
佐賀県はもとより、熊本から鹿児島西部までの広範囲にわたり、
多くの人形を送り出しました。
なお、現在は、3代目の江口 勇三郎氏、4代目の誠二氏により
製作が行われていますが、江口家以外にも諸岡 利昭 氏や古瀬 幾雄氏が、
それぞれの専門分野の作品を制作しています。
博多人形の流れを汲んでいることもあり、大型の節句人形が多く、
肌の部分には磨き出しを施し、明るい色彩を施したカラフルな作りが特徴です。
また、大型の人形以外では、様々な種類の貯金玉(土製の貯金箱)があり、
かつては、古瀬 与三郎 家(前述の古瀬 幾雄氏の親戚)において盛んに製作していましたが、
与三郎氏が亡くなった後は、古瀬家は絶えてしまい、現在は大宅 元次氏が引き継いでいます。
熊本県 本渡市:天草土人形/俵持ち童子
大正時代~昭和初期
広田政吉が文化十年(1813)に創始したと伝えられ、
次いで政吉、利八、富蔵、力造、元一と六代にわたって製作され、
盛時には天草一帯はもとより、西鹿児島や下関まで販路を伸ばしました。
しかし、大正時代から昭和初期にかけて徐々に人形の品質が低下し、
戦後しばらくまでは製作が続けられていたものの、昭和40年代に入り
惜しくも廃絶しました。
人形の種類には様々なものがありますが、その中でも金太郎を抱いた
山姥の人形はマリア像に擬せられ、隠れキリシタンの多かった大江や
崎津方面に多く出荷されたと伝えられています。
【参考リンク】
天草土人形保存会
http://amakusa-honmachi.cliff.jp/honmachi2/doroningyou/index.htm
鹿児島県 姶良郡:帖佐土人形/ひょっとこ三味線
24.0cm/明治時代
正確な創始の時期などは不明ですが、現在、記銘のある人形の型に
文久2年(1862年)のものがあることと、当初、薩摩藩内においては、
幕末ごろまで伏見人形が節句向けの人形として移入されていましたが、
価格が高価であったことなどもあり、それに代わるものとして製作が
始められたものとも考えられます。
昭和初期には、棈松(あべまつ)彌太郎、柳田岩熊、山口喜之丞など
数名の作者がいましたが、戦後になり転廃業が相次ぎ、一旦は廃絶しました。
その後、彌太郎の長男の伝(つたえ)が、昭和27年頃から人形作りを
再開しましたが長くは続かず、これも間もなく中止となりました。
しかし、昭和40年代に入り折田 太刀男 氏が復活を行い、
現在は、太刀男 氏の後を継いだ息女の貴子さんが製作をされています。
30センチを超える大型の節句人形を筆頭に、
中型や小型の人形など様々な種類がありますが、
現在製作されているものは別として、全体的に粗雑な作りで、
人形を型から抜いた時にできる前後の合わせ目のはみ出し部分の
バリを修正しないまま焼成して着彩したものが多々あります。
【参考リンク】
http://www.kyushu01.com/01/0212/0212-179.html
では岡山人形ネタをもらおうか…
岡山だと、昔からの土人形の産地は2箇所ありますが、
自分の手持ちの画像となると、あまり古い時代のものは
全然無いんですが、それでもOKですかね?(;´Д`)
まぁ、岡山で昔からの土(泥)人形というと、
こういった天神様のものがメインになりますねぇ…
岡山県 津山市:津山泥人形/天神
本体28cm/昭和30年代
中国山地の美作地方では、かつては男児も女児も共に雛節句を行い、
男児には天神や泥人形、女児には内裏雛を親類縁者から贈る風習があり、
各地で泥天神や泥人形が作られました。(泥人形=粘土を焼成しない人形)
最盛期は明治中期から大正時代にかけてでしたが、津山では戦前に廃絶し、
久米町(久米郡)で作られていた久米泥人形も、先年、作者の高齢化により
製作が中止され廃絶しました。
※現在は津山で観光土産用のミニサイズのものが製作されています。
【岡山県北観光ガイド】岡山県北のお土産紹介
http://www.e-tsuyama.com/kankou/miyage/neritenjin/
今週こちら方面にいくので覗いてみますかね…
同じ産地の人形や玩具でも、作者の老齢化による
制作力&筆力の低下や、代変わりによる作風の変化が
ありますので、今現在もこのレベルの物が販売されて
いるかどうかの保証はできませんが、機会があれば
是非ともご覧になってみて下さいねー。
あと、カラフルな人形というと、これも昭和初期ぐらいですが
スレの一番初めに出てる秋田県の八橋人形の中の、お地蔵様の
人形があるんですが、こっちはご覧になられますか?
鹿児島県 垂水市:垂水(たるみず)土人形/鯛抱き童子
17.0cm/明治時代
明治初年、長谷川一郎によって創始されたといわれ、
旧三月の節句が近づくと、大隅地方はもちろん、対岸の指宿まで
船で売り出されたと伝えられています。
戦前までは数名の作者が製作をしていましたが、昭和十年ごろには
いずれもが廃業、戦後になり、従来の淡彩から濃厚な色彩の人形が
旧来の作者の子息である渡辺操によって製作されましたが、これも
昭和40年ごろには中止となりました。
現在は、垂水人形保存会の手によって、現代に即した
色彩の人形が製作されています。
YouTube - 垂水人形
こういう人形を扱ってるお店や、
骨董市には頻繁に通ってますが、
単なるコレクターです。(^^;
資料館なんて小学校出て以来行ったこと無いしこういうものはどうにも知る機会が無いよね
まぁ実際、ここで紹介した人形の大半は既に廃絶してますし、
幸いにも作者が続いて現存している産地でも、地元の自治体が
積極的に取り上げなければ、ほとんどの人が、まず知らない…
という状況なのが現状なんですよね…。
それについては前スレ↓でも書いたのですが、
西洋にはこういった郷土人形、わけても土人形の類は
ほとんど無いんで、集めるにしても難しいという点が
ありますもんでして…
【古い時代の人形画像を色々と貼っていくスレ】
http://mamesoku.com/archives/1330562.html
http://simapantu.blog130.fc2.com/blog-entry-202.html
とりあえず、画像の方も概ね貼り終わったので
あとは小ネタを少々。
【饅頭喰い】
※画像は江戸末期から明治初期頃の伏見人形の饅頭喰い
むかしむかし、あるところに大そう賢いと
評判の童子がいました。
ある時、さる人が
「お父さんとお母さん、どちらが大事と思うか?」
と童子に問いました。
すると童子は、手に持っていた饅頭を二つに割り
「ならば、この饅頭のどちらが美味しいと思いますか?」
と問い返しました。
この話しを元にして、京都の伏見において饅頭喰い人形が作られ、
その後、全国各地にもたらされた伏見人形から、各地方それぞれの
饅頭喰い人形が作られていったのでした。
【参考リンク】
http://kyoudogangu.xii.jp/mangiukui.html
http://www.miyazaki-catv.ne.jp/~nonoen/manjukui.html
さて、そろそろお腹もすいたし、
昼ご飯を食べに行ってきますかね。
まぁ、落ちたらそれっきりで仕方ないですが、
「俺の地元の県の人形の画像とか無い?」って人は
リクエストあったら書いといて下さいましな。
ただし、必ずしも古い時代のものの画像があるとは
限らないので、その点についてはご容赦で。
あと、県によっては元々生産が無いところもあるので、
これも、そのあたりは、何卒ご勘弁と言う事で…。
※特に北海道は、本来 郷土人形が無い産地なので除外。
では行ってきまーす ノシ
乙乙
乙です
勉強になった
子守狐がかわいくてキュンとしたw
サイト作ってちゃんとした形で発表すればいいのに
失われてゆく庶民の伝統を伝えて欲しいよ
最近このスレを見るようになりました。僕は以前から江戸後期から明治にかけての人形を集めていました。堤は直しありの品ですけど1体あります。今後堤花笠踊り(江戸後期)や三春張り子(江戸中~後期)を集めたいと思うのですが、直しのない品の相場というものがまったく分かりません。お分かりになる方がいらっしゃれば教えて下さい。